「辺境の村は囮だ。捨てろ」と王に言われた村長、ブチ切れて魔王軍の進路上で村を独立させました――三日目の朝、三万の魔王軍が素通りした
「辺境の村は囮だ。捨てろ。王都の守りが先だ」
王の使者は馬から降りずに言った。若い貴族で、肩の埃を払う仕草だけが大きい。朝の光が鞍の金具で鋭く跳ね、目の奥に白く残る。
今朝の早馬で、魔王軍が国境を越えたと知れた。国境から王都まで、軍の足で十日。この村は、その道の三日目にある。魔王の布告は先に王都へ届いている。王命は、軍より速い馬で来る。王は辺境の村々を囮に捨てて、王都だけを守ると決めた。使者はそれを告げに来たのではない。村の守備兵三十を、引き上げに来たのだ。
兵長が私に目礼する。五年、門の脇の小屋で寝起きした男である。
「自分らは、王命でありますので……」
「ご苦労さまでした。五年、お世話になりました」
「村長、自分は……」
「行ってください。書式どおりに」
「王命だ。兵は連れていく」
使者が鞍の上から続ける。
「村人は残せ。魔王軍が村を焼くのに三日かかる。その三日が、王都の備えになる」
私はハインツ、四十五。この村の村長を五年、その前は国境の関所で書記を二十年やった。判を押す係である。決めるのは、いつも上だった。
「三百と十万だ。数えれば分かる」
「数えました。三百です」
使者が鼻で笑う。馬が首を振り、鈴が乾いた音を散らす。
境の掟。百年前、人と魔が大戦の末に結んだ条約である。関所の書記は、毎朝これを読み上げる。第一条、魔族は魔王の名で宣戦布告した国の土のみを踏む。第二条、旗と境と掟と、それを守る者を持つものは、国である。
私は決めた。判を押す前に決めるのは、二十年で初めてである。
「承知しました。では、この村は本日より独立します」
使者の笑いが、喉の途中で止まる。
「独立だと? 大逆だぞ、村長。戦が終われば、お前は吊るされる」
「戦が終わるまで村が残るのでしたら、私の首は安いものです」
「旗も境も無い村を、国だと言うのか?」
「魔王軍が着く前に、すべて揃えます」
使者の馬が、一歩下がる。
「関所の書記風情が……」
「書記でした。二十年」
使者は馬の首を返す。
「王命だ。勝手にしろ。三日後には魔王軍が来る」
三十の兵が街道を下っていく。土煙が街道の先に消えるまで、私は門の前に立っていた。
羊囲いのほうから娘が駆けてくる。グレタ、十歳。髪に藁をつけ、羊の名を全部言える。
「グレタ。旗を描いてください。羊の絵で」
「白いのはハナで、黒いのはスミだよ。どっちにする?」
「両方で」
「うん、並べて描くね」
村の門に、羊の旗が上がった。
◇
夕方、広場に三百人を集める。西日が家々の石壁を白く照らし、羊を囲いに入れ終えた匂いが、人の群れに混じっていた。王の言葉は、書式を変えずにそのまま伝える。囮。残せ。三日で焼く。ざわめきは起きない。羊の鼻息と靴が砂を擦る音の中で、三百人が、私の口を見ている。
残って焼かれるか、逃げて大逆か。どちらも王の書式には収まる。それから、書式の欄外に三つ目の道を言った。
「本日より、この村は国です」
ざわめきが広場を一周し、白い石壁に当たって戻る。鍛冶屋が人垣から前に出た。腕の太い、口の重い男である。
「わしらに、国なんぞ作れるかの?」
「作るのではありません。示すのです。魔族は、掟で、宣戦布告した国の土しか踏めません。国であることを示せば、魔王軍はこの村を通れません。示すものは、四つだけ」
「その四つとは、何じゃ?」
「旗は、門に上がっております。境は、畑の外周に白い石を並べて示します。掟は、門の板に記します。守る者は、皆さんです」
鍛冶屋が、隣の男と顔を見合わせる。どちらの手にも、爪の際まで畑の土が入っている。
「石を並べるだけで、よいのかの?」
「石は白いものを。境は、遠くから見えるほうがよいのです」
鍛冶屋が、使い込んだ鍬を持ち上げる。刃に残った土が、広場へ細かく落ちる。
「武器といっても、鍬じゃぞ」
「掟には、武器の指定はございません」
誰かが笑う。別の喉からも短い息が漏れ、広場に鍬の柄を握り直す音が広がる。それで決まった。
翌る日から、三百人が川原の白い石を運ぶ。子供は両手に、女は籠に、男は背負い籠で。石の触れ合う硬い音が、畑の外まで続く。私は靴を街道の埃で白くしながら畑の外周を歩いて、石と石の間が開かないように直していく。境は途切れてはいけない。関所の書記は、書式の抜けと境の切れ目を見つける係でもある。
「お父さん、ここ、川で切れちゃってる」
「川底にも並べてください。水の中でも、境は境です」
「魚がまたいじゃうよ」
「魚は掟の外です」
グレタが流れる水と川底の白い石を見比べ、それから私を見る。濡れた裾から雫が落ちている。
「……お父さんって、時々わからない」
「関所でも、よくそう言われました」
門の板には、一条だけ書いた。一、この村の者は、この村を捨てない。墨の匂いが木目から立ち、黒い文字の縁がゆっくり乾いていく。グレタは板の前に座り、旗が鳴る下で番をしている。
「お父さん。掟って、一つだけでいいの?」
「四つ示せ、と掟にあります。掟の数までは、書いてありません」
「じゃあ、羊を叩かない、も入れて」
「二条目は、国ができてから決めましょう」
夜、壁の向こうで羊が藁を踏み、冷えた風が戸の隙間を鳴らす中、寝床でグレタが小さい声で言った。
「旗、峠からちゃんと見える?」
「見えます。魔族の目は、人より良いとのことです」
「お父さん、吊るされるの?」
「吊るす方が、この村まで来られたら、ですね」
娘の頭に手を置く。髪には、羊と乾いた藁の匂いが残っている。娘はそれきり何も言わず、私の袖を握る。布を引く小さな指から力が抜けないまま、娘は眠りに落ちる。
二日目の夕、白い石の線が畑を一周する。三百人が、川の冷たさと掌の泥を運んで並べた石である。夕日を受けた白い線は、畑の緑の外を細く光って回り、空が暗くなるほど、その白さだけを地面に残す。
◇
三日目の朝、峠の道に土煙が立つ。乾いた土の匂いが、姿より先に村へ流れてきた。峠の風が門の上の旗を鳴らし、その音が誰も口を開かない門内へ響く。
三万。槍の穂先が朝日を返し、峠の斜面を白い光で埋める。足音は一つの音になって腹に響き、門の板から細い埃を落とす。先頭の魔将は馬上で、左の角に銀の輪をしている。私はその輪を、二十年前に見ている。関所の窓の向こうに、半日立っていた輪だ。
門の内で、鍬の柄が軋む。三百本の柄が、乾いた掌の中でいっせいに握られる音だ。羊の鼻息まで、近く聞こえる。
「お父さん、来たよ」
「こちらからも、見えています」
「止まってくれなかったら、どうするの?」
「止まります。もし止まらなければ、境の掟が百年前から嘘だったということです。――皆さん、順に並んでください」
三万の槍が、石の線の手前で止まった。
止まる、というより、街道を満たしていた音が石で切れる。先頭の一歩が石の手前で止まり、後ろがそれに合わせて詰まり、三万の足音が、峠の道の上から消える。残ったのは、風に擦れる旗の音だけである。
魔将が馬を降り、石の線まで歩いてくる。靴先は白い石に触れない。門の板を、木目まで確かめるようにしばらく読んでいる。角の銀が、朝日で一度光る。
「魔王軍先鋒、ゾルグ。境の掟第二条により、問う。旗を示せ」
「旗でしたら、こちらです」
魔将が門の上を見上げる。白い羊と黒い羊が、風を受けて並ぶ。羊の目は、グレタが炭で描いた丸である。布が鳴るたび、丸い目も空と地面を行き来する。
「……羊だな」
「羊の村ですので」
「貴様が、この国の主か?」
「主は、村人三百です。私は村長です」
魔将の金の目が、私を上から下まで見る。街道の埃で白くなった裾、墨の残る指、腰の判へと視線が下りていく。
「境を示せ」
「畑の外周に並べた白い石です。二日で一周しました」
魔将は石の線を目で追う。朝日を返す白さは、畑の端を曲がって家々の裏へ続いている。峠の上から見れば、畑を細く囲む白い輪が見えるはずである。
「掟を示せ」
「板に記した一条です」
「一条だけか?」
「一条で足ります」
「守る者を示せ」
三百人が、鍬を持って門の内に並ぶ。刃には畑の土が残り、節の浮いた手が柄を握っている。門の上には、いつのまにかグレタが上がり、旗の脇から角を見下ろしている。
「三百人です。武器は鍬ですが、掟には武器の指定はございません」
魔将は黙っている。風が旗と槍飾りを鳴らす間、金の目が、板と旗と石と鍬を、もう一度順に見る。
「……無い」
私は書式に不備がないと告げられたときの角度で、頭を下げる。朝の風が、むき出しの首筋を撫でていく。
「二十年前、判が一つ足りず、半日お待たせしました」
「覚えている。あの半日で、掟を全部覚えた」
「関所の長へ伺いを立て、その長が王都へ伺いを立てておりました」
「半日で済んだのが、今でも不思議だ」
魔将が帳を開く。革の表紙が乾いた音を立て、厚い頁が風を含んで鳴る。関所で朝ごと聞いたのと、同じ紙の音である。
「村長。国の名を申せ」
「まだ、決めておりません」
「名の無い国は、帳に記せぬ」
旗が大きくはためき、門の上から、聞き慣れた声がいちばん大きく降ってくる。
「ヴァイデ! 羊の国ヴァイデ!」
「国の名はヴァイデで、お願いします」
「羊の国、とは記さん」
「ヴァイデだけで、結構です」
「第二条により、国と認める」
魔将の筆が動き、硬い筆先が帳の紙を擦る。その音を追うように、グレタが門から身を乗り出した。
「おじさん、その角、折れるの?」
魔将は筆を止めずに答える。紙を擦る音にも、乱れはない。
「折れる。だから守る」
「痛い?」
「知らん。折れたことはない」
「折らないでね」
「折らん」
魔将は帳を閉じず、乾いた頁に手を置いたまま続ける。
「布告は魔王陛下の名でのみ出る。使者を魔王城へ走らせた。返答はひと月後だ。だが、それまで我らは待たぬ」
「では」
「掟により、魔王軍はこの国の土を踏まぬ。……通れん」
魔将は帳を閉じ、一度だけ角を下げた。革の表紙が合わさる音は、判を押す音より軽い。
三万が動く。槍も、荷駄も、石を一つも跨がない。槍の影が石に掛かるたび、持ち手が穂先を外へ振る。畑の外を、一列になって街道の先へ下り、蹄と車輪が細長い土煙を引く。荷駄の車輪が石に触れそうになると、引き手が黙って車を持ち上げる。魔将が最後に、石の線の向こうから言う。
「布告した国の土は踏む。麦も取る。逃げる者は追わん」
「掟のとおりに」
「掟のとおりだ」
魔王軍は、石の外を歩いて行った。
三万の背中が街道の先に消えてから、私は境石に腰を落とす。白い石の冷たさが、服越しに伝わってくる。判を持つ指が震えている。二十年、この指が扱ったのは、上から届いた紙と、決められた欄だけである。グレタが門から降りてきて、判ごと私の手を両手で包む。
「……受理されました」
「お父さん、声、変だよ」
「風邪のようです」
◇
先鋒が去った翌る日から、隣の村の者が来ている。焼かれた村、これから焼かれる村。街道の埃をまとった靴が、白い石の前で止まる。門の前に机を出し、一人ずつ通した。名と、村と、人数と、羊の有無を、紙の擦れる音とともに帳へ書く。関所の書式のままである。違うのは、判を押す前に決めるのが、私だということだけだ。朱肉の匂いは、関所と同じである。
先鋒が去って十日後の朝、街道の向こうに列が見える。朝日に浮く埃が、地平線の際まで薄く続いている。
列は、地平線まで続いていた。
羊の毛の肩掛け、煤けた鍋、籠、背負われた老人。鍋の縁だけが朝日に光り、乾いた咳と足を引きずる音が重なる。人の列は街道の砂より濃い色で、地平線の際に一本の線を引いている。
机の上の帳を新しい一冊に替える。紙の端を指で揃え、判に朱を含ませる。新しい頁は、朝の風を受けてかすかに鳴る。
「お名前と、村と、人数と、羊の有無を」
「峠の向こうの村から来た。羊は……もう、いない」
「受理いたします。人数は、こちらで数えます。羊は、こちらでお貸しします」
「羊まで、貸してくれるのか?」
「一頭ずつ。お返しは、毛でけっこうです」
判を押す。紙の繊維が鈍く鳴り、朱が帳の新しい頁に丸く残る。
「……ずいぶん変わった国だな」
「なにぶん、まだ新しい国ですので」
次の一組は、川下の村の者である。母親の裾にも子供の裸足にも、長い街道の白い埃がついている。子供が母親の後ろから、机の帳と赤い判を覗いている。
「お名前と、村と、人数と、羊の有無を」
「……子供の名から先に、言ってもいいか?」
「どうぞ。帳には、子供の名から書きます」
「どうして、子供が先なんだ?」
「読み返すとき、子供の名から探すためです」
母親が、子供の名を先に言う。村と、羊は焼けたことを。人数は、こちらで数える。羊の有無の欄で私の筆先が止まり、風にめくられかけた紙を指で押さえる。それから書き取って、判を押す。
グレタが通った子供に、羊を一頭ずつ見せている。子供の手が毛に沈むたび、羊の温かな匂いが門前に広がる。
「あたし、グレタ。白いのがハナで、黒いのがスミ。受理いたします」
羊の背に置いた子供の指が、柔らかな毛の中へ沈む。子供は自分の手を見て、それから初めて笑う。
列の脇を、馬が駆けてくる。乾いた蹄の音が近づき、帳の頁へ細かな埃が落ちる。乗っているのは、全身を街道の色にした若い貴族。同じ使者である。馬の口から、白い泡が糸を引いて落ちている。
「王都はもう囲まれている。……囮は、一日も稼がなかった」
「お名前と、村と、人数と、羊の有無を」
「王命だ。陛下は御座所をこの村へ移される。門を開けろ」
「この国に、王命はございません」
「陛下がお見えになるんだぞ」
声が裏返り、馬が泡のついた口で荒く息を吐く。列の先頭の老女が、私を見ている。羊の毛の肩掛けを両手で掴み、擦り切れた端を指の中へ巻き込んでいる。
「村長さん。どうも、順番が違うようだが」
「はい。ただいま直します。――陛下でも、書式は同じです。お名前と、村と、人数と、羊の有無を」
「俺は――」
「列の後ろには、まだ書式をお待ちの方々がいらっしゃいます」
私は列のほうへ向き直る。机の上では帳の紙が風に鳴り、乾きかけた朱が朝の光を鈍く返している。
「入国審査を始めます。王都の方は、列の最後尾へ」




