7話
病院を出た瞬間、冬の空気が肺に刺さった。
アルコールの匂いや異常なまでの白さから解き放たれたというのに、胸の奥の重さは何も変わらなかった。
先を歩く母の背は少し丸くそして小さい。
駐車場までの2分もかからない距離が、やけに長く感じる。
「リハビリ次第って言いよったね」
ぽつりと母が呟いた。
「うん」
私もそれしか言えなかった。
軽自動車のエンジンだけが場違いにけたたましく鳴く。
面会時間は長くなかったはずなのに車内まで冷えきっていた。
備え付けのエアコンも中々効かない。
信号の赤を見つめている時、携帯が鳴った。
ピコン。
無意識のうちに、切ったはずの電源を入れていたらしい。社会人の性を感じる。
通知はSlackのものだった。
運転中なので一瞬確認するに留めたが、これがまた私を酷く揺らす内容だった。
「来週のプレゼン、先方が君メインでって話になってる。戻れる目処ある?」
喉がきゅっとしまった。無意識にハンドルを握る手が強くなる。
気遣いしてくれてる文面が余計に私を痛ませる。
母が「青になったよ」と言ったので、車を再び走らせる。
「……さっきのは仕事の?」
「うん、そう」
母はいつもよりも真面目な様子で短く息を吐いた。
「……あんたがおったら、助かる」
服を握ったのだろう、布が擦れる音が耳に届く。
「でも、あんたにも仕事があるしね」
さっきの言葉をかき消すかのように、すぐさま被せられたその言葉は余計にしこりを大きくする。
助かる。
でも。
どっちも本音なのだろう。
ようやく聞いた母の声はいつもより強ばっていた。
私はどうしたい?
家に着いても、答えは出ないままだった。
夕飯は簡単に鍋にすることにした。
湯気の向こうで母は白菜を追加していた。
「正直……」
「お父さん一人で回しとったような店やけんねぇ」
ぐつぐつ煮えたぎる鍋の音だけが居間を埋める。
急に、ぐつぐつという音がうるさく感じた。そっと卓上IHを保温モードにした。
あくまで、いつも通りを装うため、箸を持ったまま私は言った。
「一回、大阪戻って、ちゃんと整理してくるわ」
母の手が止まる。
「……そう」
「……どうする?」
母はまた鍋の具材を入れながらこちらは向かずに聞いてきた。
私はまたIHを加熱モードに戻す。
もう煮えている具材をつついて、とんすいについでいく。
母の顔は見れない。鍋の椎茸を見つめながら私はこう言った。
「……一旦。整えてくる」
少し、声が震えてしまった。
でも、その言葉を口にした瞬間少し空気が柔らいだ気がする。
鍋からゆらゆらと温かな白い湯気が出ている。
「……ほんとに?」
嬉しいのか、怖いのか、申し訳ないのか、判別できない声。もしかしたら全部混ざっていたのかもしれない。
その声を聞いた時。
私はやってしまったと後悔した。
母を期待させてしまった。
母は微笑んでいたと思う。湯気であんまり見えなかったことにした。
急いで選んだ私の椎茸はまだ加熱が不十分だった。
夜、自室に敷かれた布団の上でぼんやりと胡座をかいていた。
ふとカバンを触ってないことに気づいて取り出す。
ただの私のSwitch2。
起動してない黒い画面は薄らと私の顔を反射させていた。
私がここに残るのは私のためではない。
逃げ、でもない。
覚悟がある訳でもない。
ゲームみたいにコツコツ時間をかける訳にも、リトライ出来る訳でもない。
でも、攻略法は探せるはずだ。
……探すしかない。
探せる気は、しないけど。
カバンに丁寧にしまい込み、明日を迎えるために布団に潜り込む。
帰って、私はゲームする。
できたら、いいなぁ。




