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目が、合った。アリアは思わず息を呑んだ。
(なんて……真っ直ぐな眼差しだろう……)
アリアのそれとは色味の違う、青い瞳。少し癖のある髪は焦げ茶で、トーリアの王族では見ない色だ。あの国の上流階級では色素の薄い髪や肌が尊ばれ、彼のように濃い色の髪や日に焼けた肌は厭われる。
馬鹿馬鹿しい、と思う。だってこんなに美しいのに。
彼の見目は良かった。野蛮というより精悍という言葉がしっくり来る。トーリアでは好まれない色合いの髪や肌だが、これならいいと言うトーリア令嬢はたくさんいることだろう。
だが、その眼差しはこちらへの不信と猜疑に満ちていた。歓迎する気持ちなど微塵も見えなかった。
(……仕方がないか)
アリアはかすかな溜息ひとつで諦めた。
甘い希望を抱いて嫁いできたわけではない。しょせん自分は生贄なのだから。
拒否する手立てなどなかったし、拒否するつもりもなかった。あの城で生きながら腐っていくような日々を思えば、最後に他国を見てから死ぬのなら悪くないだろうと思ったのだ。
(――でも、ひとつだけ)
ひとつだけ、心に決めていることがある。
殺されるその時に、みじめに泣き叫ぶことだけは絶対にしない。
そう決めている。
「王妃様、ご成婚おめでとうございます! 改めまして、コゼットです」
「……ジルです」
アリアに頭を下げ、二人の侍女が名乗る。栗色の巻き毛で明るい雰囲気なのがコゼット、まっすぐな黒髪で不機嫌そうなのがジル、二人ともトーリア人だ。
結婚が決まるまでは――決まってからも――侍女を持っていなかったアリアだが、さすがにそれはまずいとの判断だろう、侍女を二人つけられて送り出された。
日程に余裕のない道中なので二人とはろくに話さず、そもそもあまり一緒になる機会もなく、アリア自身も結婚式での手順を確認したりと必要なことが多かったので、きちんと名乗られるのは初めてかもしれない。ドレスの着付けや化粧などは二人がしてくれたが、式のことでいっぱいいっぱいなアリアに余計なことを言わない方がいいと判断したのだろう、挨拶したり雑談したりすることはなかった。
なんとか無事に式を終え、薔薇の浮いた風呂で疲れを癒し、マッサージは断って――治りきっていない傷跡などがあるので――、夜着に着替えて暖かいお茶を飲み、一息ついたところでのことだ。
花嫁教育が始まってからは風呂に入ることもできるようになったが、あまり浸かりたくない冷めかけたお湯ばかりだったし、花を浮かべることもあるとは想像すらしなかった。トーリアでは清潔さを最低限保てればそれでよく、花嫁として風邪を引かなければそれでいい、風呂とはその程度のものだった。それですら離宮では許されなかったのだ。
温かく香りのよいお湯がたっぷりと用意されているなんて、肌触りのよい泡の立つ石鹸が充分あるなんて、しかもそれが薔薇をかたどったものだなんて、ものすごい贅沢だ。
(……生贄に対して、最後のはなむけかもしれないけれど……)
アリアは軽く首を振り、気持ちを切り替えた。考えていても仕方ない。
二人に向かって微笑む。
「ありがとう。二人とも、これからよろしくね」
言いながら、内心は冷めている。今のところは何もされていないが、王族が用意しただろうこの二人が突如アリアを虐げ始めてもまったく驚かない。ジルの方は特に、不満だという思いをありありと顔に出して隠していない。アリアかノナーキーか、あるいはその両方か、ひどく気に入らないということだろう。
(トーリアに帰してあげられればいいのだけど……それはそれで責められそうなのよね。侍女としての役割を果たせなかったのかと。それに、帰しても次の誰かが送られてきそうだし……いっそ交代制だと思うことにして、そう仕向けてみる……?)
「……王妃様?」
考え込んで黙っていたせいだろう、コゼットが心配そうに眉を寄せた。
「やっぱり、緊張していらっしゃいます……よね……」
「いいえ、大丈夫よ」
結婚式を乗り切ったのだから、初夜も大丈夫だ。人が大勢いた昼間とは違って、今度の儀式は夫になった人と二人だけで行うものらしいが、特に緊張はしない。
体格のいい人だったし、アリアを殺す動機もある人だから、もしかすると今日がアリアの命日になるのかもしれないが。
だが、暴力には慣れっこだ。
確実に暴力を受けると決まっている兄王子たちとの対面に比べれば、まだ緊張せずにいられる。どんな暴力を受けるか想像ができないから、体も震えずにいられる。
アリアが自然体だからだろう、緊張していないと納得したコゼットが感心したように頷いた。
「そうですよね、お姫様ですもんね。閨教育もばっちりですもんね」
「コゼット!」
ジルが声を上げて窘めるが、アリアは首を傾げた。
(閨教育って……何だろう?)
名ばかりのお姫様だったアリアは、自慢ではないが知識があちこち欠けている。閨教育なるものも受けていない。
「あの……」
それを正直に言った方がいいのだろうか。考えあぐねて声を上げるが、それは遮られた。
ノナーキー人の女性使用人がアリアの寝室を訪れ、告げたのだ。
「陛下が、お渡りになります」