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「わたくしにノナーキーへ行けと? 冗談でしょう? あんな未開で野蛮な国。清らかな山々に囲まれた我が国と違って、海辺って猥雑だし粗野な人々が多いと聞くわ。冗談じゃないわ」
クラリスはさも不機嫌そうに言った。不愉快な場所にアリアを追いやるのはいいらしい。
(海……)
どんなものなのだろう、とアリアは思う。池を途方もなく広大にしたようなもので、しかも塩水で出来ている地形らしいが、まったく想像がつかない。
それと、人々の粗野云々については正直なにも思わない。ここに集まる人々よりひどいということもないだろう。
「クラリスには婚約を整えた。だから他国へ嫁げる年頃の娘は、お前ひとりだ」
国王ジョザイアが言う。整えた、というところから察するに、急ごしらえででっち上げたらしい。本当にそのまま結婚するのか知らないが、しないにしても婚約破棄の方がノナーキーへ嫁ぐよりもましだということなのだろう。
そこまでしてノナーキーが嫌がられる理由が分からないが、そういえばジュリアたちはこうも言っていた。生贄、と。
ハロルドが引き継いで言った。
「我が国はしぶしぶながら王女を差し出す。お前には何も期待していない。向こうで無礼をはたらいて手打ちになるならそれでいい。弔い合戦をしてやるからな。まあ、こちらが反撃の準備を整えるまでの時間を稼いでもらえるなら、それでいいんだ」
「………………」
アリアは再び唇を噛み締めた。何も期待していないというのは嘘ではあるまい。時間稼ぎさえアリアに期待せず、おそらくは婚礼の準備だの何だのと理由をつけて引き延ばすことを考えているのだろう。たとえアリアが反抗して、ノナーキーに渡ってすぐに自死したとしても構わないのだろう。
生贄と言うからには、すでにアリアの死は織り込み済みだ。どこかで自分は――ノナーキーによってか、トーリアによってかは分からないが――殺される。そして、トーリアの兵たちの士気を高め、諸国の同情を買うために使われるのだろう。
(……ずいぶん、大掛かりな死に方ね……)
今まで自分が生かされていたのが不思議なほどだ。いつか殺されるだろうことは予想していた。限界を迎えるのは虐げられ続けた体も心か、王族たちの憤懣か、王の恋心か。どれであってもおかしくなかった。……どれでもなく、状況が激変したことによるものだったが。
アリアを差し出すということは、王は母のことを諦めたのだろうか。それとも、これをきっかけに思い切ろうとしているのだろうか。周りの人々に諫められたのだろうか。そのあたりの事情はアリアには分からない。
「……でも、第五王女を差し出して……大丈夫でしょうか?」
思慮深げに声を上げたのは、第二王子サイラス。クラリスの同母兄だ。
だが当然のごとく、彼もアリアを心配して声を上げたわけではなかった。
「政治的に価値のない娘とはいえ、二つ目の名前を持っている王女です。いずれ我が国に連れ戻した方がいいのでは」
トーリア王族の習わしとして、生まれた子を賢者に見せ、祝福を授けてもらうというものがある。アリアも生まれた時はれっきとした王女として扱われていたため、慣習に則って賢者の祝福を受けている。その際、リーチェという名前を頂いたのだ。
その名前にどんな意味があるかは知らない。ここにいる人々も知らないだろう。ただ、賢者が祝福とともに名前を与えるのは珍しくも古式ゆかしいことであるらしく、父王にはたいそう喜ばれた。誇りに思う、とも言ってもらったらしいと母づてに聞いた記憶がある。
アリアの髪は母ゆずりの銀色だが、瞳は王家の青だ。他の王子や王女たちもこの色の瞳を受け継いでいる者ばかりだが、二つ目の名前を持つ者はいない。アリアは王家の色の瞳を受け継いだばかりではなく二つ目の名前まで受けたということで嫉妬され、それは後年に具体的な暴力となって襲い掛かってきた。
賢者がどういう意図でどういった基準で名前を与えているのか知らないが、今のアリアにとっては何の助けにもならないばかりか、虐待を助長するだけの名前だ。いや、もしかしたらこれのおかげで、命までは取られずに済んでいたのかもしれない。……苦しみを長引かせていたということにしかならないが。
「名前なんてそんなもの、賢者のきまぐれでしょう。連れ戻すことなんて考えなくていいわ」
サイラスとクラリスの母、即妃ユーニスが言い放った。
「名前を二つ持つ娘を我が国に戻して、何かいいことがあるとでも? むしろ好都合ではないかしら。そんな貴重な存在を、蛮族の国に下げ渡してあげるのだから。思い切り恩を売ってやるわ」
彼女の言葉からも窺い知れるが、歴史の古いトーリアは他国を見下す傾向が強い。
(……でもそんな「蛮族」なら、名前を二つ持つくらいのことをありがたがるかしら……)
アリアは思ったが、口は挟まない。どうせ結論は変わらない。その過程に折檻が加わるか否かの違いだけだ。
とにかくも、事情は分かってきた。トーリアはノナーキーに戦争で負け、王女を差し出すことになった。そのあたりは隠しようもないから、ジュリアの夫も公爵として知らされ、迎えに来た彼女にこの話を伝えたのだろう。
しかしトーリアは負けたままでいるつもりはなく、王女を利用して時間稼ぎをし、のちに反撃の口実あるいは士気を高める生贄として使い潰すつもりでいる。連れ戻すつもりもない。
その役回りは姉姫クラリスもできるが、できなくさせるために急ごしらえの婚約を整え、アリアに白羽の矢を立てた……いや、順番が逆かもしれない。最初からアリアを犠牲にするつもりで、最大限に利用しようという意図で時間稼ぎと人質と生贄の役を与えたのだ。もしもクラリスしかいなかったら、何とかして彼女の命を救おうと策を弄しただろう。そもそも最初から王女を嫁がせる話にしなかったかもしれない。
必要にかこつけて、アリアを使い捨てる。
都合がよかったのだ。王族にとっても、この国にとっても。