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――その戦いに義はありや、己が命捨つるほどの大義ありや……
馬から降りたアリアは、迫り来る軍勢を恐れげもなく見つめ、歌い始めた。
きっとこの声はみんなに届く。不思議な確信があった。そしてアリアの確信通り、歩兵や軍馬の立てる音にかき消されず、それらの上を行くかのように歌声は辺りに広がった。
ガラリア戦記……エセルバートに歌った古典の一節だ。精霊の力を歌に乗せる練習にこの本を使ったため、すらすらと口から出てくる。なんとなく荷物に入れた本だが、こんなふうに使うことになるとは思わなかった。
ジルから自分の能力について知らされた後、アリアはその力を磨くために即席の修行をした。歌う練習はずっとこっそりと続けていたのだが、そこに宿る力を意識することはなかなか難しく、最初は難航した。
だが、それまで無意識に行ってきたことだ。一度気づけば上達は早く、歌に意図的に力を籠めることができるようになってきた。
……行く手を阻む者は誰そ、其は己が敵であるか……否、其は己が弱き心なり……
エセルバートの合図はきちんと聞こえてきた。交渉は仕切り直しだから戻れと、その意図は分かっていた。
父王と第三国の者の前で自らが生きていることを示す予定だったが、父は真偽を確かめようとすらせず……すべてを消し去ろうとした。名乗りを上げた者が娘であろうと、無関係の別人であろうと、どうでもいいと言わんばかりに。
半分は分かっていた。父はアリアのことをどうでもいいと思っているか、むしろ死んでいてほしいと思っているだろうと。
それでも、無関係の者であろうとお構いなしに消そうとするやり方には心底失望した。アリアだけでなく、そこにはコゼットもいたのに。
失望に、溜息すら出てこなかった。見るともなしにそちらを見つめたアリアを、逃げようとコゼットが急かした。
だが、頷かなかった。
もう、逃げたくない。父がここまでアリアを否定するならば、こちらからも父を……いや、トーリア国王を否定する。家族だなどと甘いことを心のどこかで考えていた自分が愚かだった。
自分に向かって兵たちをけしかけた敵国の王を見据え、アリアはコゼットに言った。
「あなたは逃げて。私を置いて行って」
「置いていけるわけないでしょう!? 逃げましょう、お妃様!」
「大丈夫……ではないかもしれないけれど、置いて行って。私のせいで両軍がぶつかってしまうのは嫌。これ以上、戦を長引かせるのは嫌。逃げるのはもう嫌なの」
そんなやり取りの末、アリアは馬を降りた。
本当なら今頃、アリアはジョザイアの前で身の証を立て、状況を覆しているはずだったのだ。彼が拒否したせいで、こんなことになってはいるが。
だったら……同じことを、ここでしてもいいはずだ。できるはずだ。
アリアの身の証明……それは、歌だ。母から教わり、苦難の中で磨かれ、見出された歌の才。精霊の力を借りて乗せることのできる、歌。
歌姫だった者を母に持ち、精霊に愛された歌は、ジルの教えと修行によってさらに磨かれた。今では、蕾を花開かせたりすることができる。明らかに特別な歌の才能は、精霊信仰のトーリア王国の姫君、夢の城を維持していた王女としての立場を証明してくれる。
ジルはアリアの歌を、癒しの力だと言った。
花々を美しく咲かせ、ノナーキー国王の不眠を解消し……そしてきっと、この歌は戦場でも響く。
「お願い、やらせて。無理そうならちゃんと逃げるから」
「……仕方ないですね。私はこう見えても早駆けには自信がありますから、本当にぎりぎりになったら有無を言わさず連れて逃げますからね。乗り心地は期待しないでください」
「分かったわ。ありがとう」
そしてアリアは口を開き――歌を、風に乗せたのだ。
……彼方より聞こゆるはつわもののおらびか軍馬の響みか……否、其は汝を呼ぶ父祖の声、天より降り注ぐがごとく、地より湧き出ずるがごとく、汝の心より出で来しものなり……
旋律は、母の遠い故郷の歌。きっとトーリア人にもノナーキー人にも耳慣れないだろう、音階を細かく区切って区別する、不思議な印象の――だが、どこか望郷の念を掻き立てる、遠い異国の歌だ。
その旋律に、この地の古い言葉を乗せる。
エセルバートに歌い聞かせたときと要領は同じだ。一定のパターンが繰り返される韻文を、旋律に乗せる。
異国の旋律と、この地の古い言葉が、不思議に調和する。
そして――歌が、風に乗り……あたりを駆け巡るように満たした。




