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その唇から流れ出てきたのは、どこまでも透明に澄んだ歌声。空気を潤して染み渡っていく、奇跡のような歌声だった。
木々や花々が喜ぶようにさやさやと揺れる。
(あ……みんな、喜んでいる気がする……)
アリアは唇を緩め、さらに高く歌い上げた。
かさついた唇は口を開けるだけで端が切れるが、血の味など気にもならない。夢中になって次々と歌っていく。
ぶなの木で眠る小鳥が見る夢、波にゆられる船が目指す海の果て、月光にきらめく雪原を歩いていく旅人……世界のさまざまなことを、自分を通して歌にしていく。
歌を、歌い方を、歌う喜びを……アリアは母から教わった。母から受け継いだものは容姿ばかりではなく、歌や歌声もそうだった。
そしてアリアにとっては、歌が救いになっていた。
悪意に満ちた離宮に押し込められて痛めつけられる日々……しかし心だけは自由だ。
心は、歌は、自由だ。
もっと、もっと、歌を――
「――何をしているんだ?」
世界を破る声が聞こえ、アリアは青ざめて振り返った。
声で予想していた通り、そこにいたのは王太子ハロルドだった。
ジュリアと同じく正妃の子で、ジュリアよりも一歳上の二十六歳、国王ジョザイアの後継者と目されている王子だった。すでに即妃を娶っており、立場を固めている。その彼が仁王立ちになってアリアを見据えていた。
「何をしているんだ、と聞いているんだが」
ジュリアそっくりの嗜虐的な笑みを浮かべ、ハロルドはアリアとの距離を詰めた。
アリアはさらに青くなった。
(歌に夢中になりすぎた……! 気配を探ることを怠っていたわ……!)
声をかけられるまで気づかないとは、迂闊にもほどがある。だが、歌い始めてからそこまでの時間は経っていないはずだ。歌い始める時には念入りに気配を探ったはずだったのに。
「答えろよ」
これまたジュリアそっくりの仕草で、ハロルドはアリアを蹴った。倒れ込んだアリアを、さらにぐりっと踏み潰す。
骨がきしみ、アリアは声にならない悲鳴を上げた。
「答えろと言っているのが聞こえないのか!」
怒鳴られ、びくっと顔を上げるが、とうぜん答えなど持っていない。何を言っても状況は好転しない。
アリアの目に、怯えと、なぜここに、という不可解さが滲んでいるのが分かったのだろう。ハロルドは言った。
「お前の声はよく通るからな。かなり遠くからでも聞こえた」
(知らなかったわ、しまった……!)
アリアが気配を感じられる範囲よりも、声の届く範囲が広かった……それだけの話だったのだ。
知らなかったことだが、致命的だ。
ハロルドが嗜虐的に言った。
「歌ったらどうなるか……教えておいたはずだな?」
アリアの顔色は青を通り越して白い。栄養不足でもともと薄い血の気が完全に引いている。
まだライラが姿を消してから間もない頃、アリアはよく歌っていた。こそこそと気配を探りなどせず、それまで通りに、心のままに。
だが、ライラを思わせる歌声が癇に障ったとみえ、妃や王子王女たちに寄ってたかって殴られ、蹴られ、喉を潰された。
しばらくは息をするのも痛いほどだったが、アリアにとって幸いなことに、やがて声が戻ってきた。その時は本当に安堵したものだ。殺されるよりも声を失うことの方が怖かった。
声を、歌を失う恐怖から、アリアはそれ以降は人前で歌わないようにしていた。
それでも歌いたい衝動は止まず、室内で小声で歌うだけではおさまらず、気配を探りつつ外でも歌うようになったのだ。
――それを、知られてしまった。
声を、歌を、今度こそ奪われてしまう。
アリアはとっさに喉を庇ったが、その痩せた手ごとハロルドがアリアの喉を掴みにかかった。
「忌まわしいんだよ、その声も歌も。そのせいで母上たちがどれほど惨めな思いをさせられたか。おかげで俺たちも被害を被った」
正妃たちの癇癪を受けたとか、雰囲気が悪い中で過ごしたとか、そういうことなのだろう。同情の余地がないこともないが、やっぱりない。その後の所業で帳消しにして余りある。
ハロルドは手に力を込めた。
「もういらないだろう? この喉も。どうせお前はもうすぐ死ぬことになるんだから」
「…………!?」
アリアは目を見開いた。
最後の最後で命だけは取られずに生きてこられたが、とうとうその命さえ奪われなければならないのか。いつかはその日が来るかもしれないと覚悟はしていたが、それが今なのか。
妃や王子王女たちにはそんな決定はできない。
(お父様が……!?)
父がついに、アリアを殺すことを決めたのだろうか。
ライラに対する愛情がなくなったのか、諦めたのか、事情は分からない。分かる日が来ることなく殺されてしまうのかもしれない。
だが話は意外な方向に進んでいった。
「お前は生贄になるんだ。ノナーキーに嫁いで、そこで殺されろ」
(ノナーキー……? 嫁ぐ……!?)
ノナーキー王国のことはもちろん知っている、名前と一般常識くらいだが。山間にあるトーリアとは違い、沿岸部に領土を持つ比較的新しい国だ。
もっともトーリアはかなり歴史が古い国なので、ここと比べればたいていの国は新しい。
建国五百年ほどしか経たないが、領土は広く、勢いがあり、国力はトーリアをはるかに上回っている。
そのノナーキーに、嫁ぐ?
聞き間違いだろうか? 聞き返したいが声が出せない。そればかりか、空気が喉に入ってこなくて頭が朦朧としてきた。
「お兄様、そこまでにしておいてちょうだい」
帰ったと思ったジュリアの声がした。信じがたいことに助け舟を出そうとしてくれているようだ。
「お前か。なぜだ? 嫁ぐのに声はいらないだろう」
「嫁ぐのにはいらないけど、生贄には必要でしょう。殺されるときに泣き叫んでもらわなければならないのだから。黙って死なれても目立たないし面白くないわ」
……違った。当然のことながら、助け舟などではなかった。
だがこの場しのぎにはなった。納得したハロルドが手を放してくれたからだ。
アリアは崩れ落ちて咳き込み、必死に息を吸った。
嫁ぐ。生贄。ジュリアの口からも出た言葉に、いよいよ聞き間違いではないことを確信する。
だが、わけが分からない。
そんなアリアを引きずるようにして、ハロルドとジュリアは城に引っ立てていった。