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だが、時間は猶予をくれなかった。事態は素早く、しかも悪い方向に転がった。
船に滞在中のある日、まだ日が昇り切っていない午前中、エセルバートは厳しい表情でアリアに伝えた。
「再戦の兆候を掴んだ。トーリアが諸国から兵を寄せ集めて、前回ノナーキーと停戦協定を結んだ地点の手前に、小分けにして移動させようとしているようだ」
その知らせに、アリアは息を呑んだ。
朝からエセルバートが深刻な表情をしていたので外に行く気になれず、船内にとどまっていたおかげで情報を素早く共有できたのはいいが、知らせが悪すぎた。
「……いよいよですか」
アリアは静かに覚悟を固めようとした。停戦をふいにされたらノナーキーはアリアを見せしめに処分するしかない。戦いがふたたび始まっている中では敵国の王女などという危険分子を生かしておく道理がない。人質として機能しなかった王女など。
(……分かってはいたはずでしょう、私。私はトーリア王家にとって、むしろ処分したい存在なのだから。生贄としてノナーキーが殺してくれるなら万々歳、弔い合戦になどと白々しい大義名分をかざして戦いに勢いをつける気を隠そうともしなかったのだもの……)
だが、覚悟はなかなか決まらなかった。以前のアリアであれば一瞬で諦めたはずの命が、今は惜しい。
エセルバートに必要とされ、共に生きたいと願われ、喜びとともにそれを受け入れた自分が……自分の命が、自分ひとりのものではないのだと、今更ながらに身に染みて思う。
ノナーキーに嫁ぐまでのアリアは、意思が希薄な人形のようで、命に執着がなくて、生きることを諦めるどころか望むことさえもしていなかった。
そんなアリアを、エセルバートが人間にしてくれた。人間として扱ってくれて、生きてほしいと望んでくれた。
それに――応えたい。覚悟なんて決まらない、生きたい。生きるために足掻きたい。
「……いえ、いよいよ、立ち向かうべきときが来たのだと思うことにします。覚悟はそちらの方向に固めます」
「アリア……」
アリアが希望を失っていないのを見て、エセルバートは思わずといったようにアリアを抱きしめた。
「そなたはもう人質ではない、私の妃だ。生贄にもさせない。私がそんなことを命じることは絶対にない」
……たとえ、ノナーキーの国益を損なおうとも。
語られなかった言葉が聞こえた気がして、アリアは束の間目をつむった。
欲張りだが、それも認めがたい。アリアはもう、ノナーキーの王妃なのだ。この国のためになるようにしたい。国益を損なわせたくない。
「……エセルバート様、これからどうなさるおつもりですか?」
だがその内心は言わずにエセルバートに問うた。エセルバートは即答した。
「すぐに私自身が向かおうと思う。向こうも陣形を整えないまま突っ込んでくるような無茶はしないはずだからな。それでは兵をいたずらに失うだけだ。まだ国境は越えないまま、その手前に兵力を集めてとどまるはずだ。こちらも兵力を集めて向かわせるが、その前に私が出る」
「……陛下が、おんみずから……」
「私の評判を知らないわけではないだろう。私は兵の指揮もするし、自分でも打って出る。とにかく状況をこの目で見極めないことには話にならないから、すぐに向かおうと思う」
不安げな表情を隠せないアリアを撫で、安心させるように言ってくれる。
「なに、心配するな。こちらが負けることはないのだからな」
(……でも、戦いに絶対はないわ。それに……私を庇いながらではノナーキー兵も動かしにくいはず……)
本来なら、アリアを見せしめに殺すことでノナーキー側も憤懣をおさめ、意気を上げるはずだったのだ。ノナーキー王がトーリア人王妃を庇うとなると、まず王への不信が生まれる。弱腰の王はまさかトーリアに何か弱みでも握られているのか、などと痛くもない腹を探られる。兵の意気は上がらないどころか、下がる一方だ。
対してトーリアの側は、アリアが生きていても状況はそれほど変わらない。王女の仇を討て、から、王女を救い出せ、に変わるだけだ。……「救い出した」あと、トーリア王家がアリアをどのように扱うかなど、考えたくもないが。……本当に、白々しい。
アリアを庇うということは、アリアを生かすということは、そういうことだ。ノナーキー王として、重い枷を嵌められた状態で戦えということだ。
アリアは顔を上げた。
「私も行きます」
「!?」
驚くエセルバートに、アリアは再度、言った。
「私もそこへ行きます。前線になるはずの国境地帯へ」
アリアはナイダル河を下ってノナーキーに来たが、そのナイダルの河岸であっても人の住んでいる土地は少ない。河から離れると言わずもがなだ。戦争は、河にほど近い、人の住まない野で行われた。
トーリアは精霊信仰ということもあり、自然を大事にする。国内には手つかずの自然が残る場所が多くあり、昔と比べて国土が格段に小さくなってしまった今も事情は変わらない。あれだけ野蛮だの何だのと蔑んでいるノナーキーと、じつは隣国なのだ。国境が山の中でろくに機能しているとは言い難いが。
そんな意味の薄い国境を動かそうとトーリアがもくろんでいるのは、かつての領土を取り戻したいからなのだろうと思う。山々はすべてトーリアのもの。海辺はいらないから、野蛮な未開の民はそちらに住んでいろと、そういうことなのだろう。
山々を覆う森には、精霊が住んでいるとトーリアの者は信じている。目に見えなくてもいるのだと。かつて広大な国土を誇った古王国トーリアは、祭祀王を戴き、精霊の住まう森を国土とし、大陸中に名を馳せた。
それももう、遠い昔のこと。今さら当時の国土を回復するなどできるはずもなく、名声も戻ってこない。
アリアはそういった推測を、ノナーキーに来てから、トーリアを外側から見ることで得た。これでも一応はトーリア人の端くれでもあるから、内側からの意識も分かる部分はある。
だが、理解できない。そんな傲慢をよしとさせてはならない。
決意を固めるアリアを、ジルが思慮深げな瞳を不安に陰らせて見つめ、声をかけた。
「お妃様……本当に行かれるのですか?」




