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「……なあ、最近ナイダル川を行く船の動きが慌ただしいが……」
「……そりゃあ、戦いが始まったらまっさきに影響が及ぶからだろう。王様は敗戦国からお妃様をお迎えになったが……」
近くに座って喋っているのは商人らしき二人組だ。同郷の者同士で喋っているからだろうか、訛りが丸出しで聞き取りづらい。コゼットは話の内容を理解していないかもしれない。ジルは理解しているのかいないのか、その無表情からはさっぱり読み取れない。
行儀が悪いと思いつつも、話が気になる。ついつい耳をそばだてて聞いてしまう。
彼らが言うことには、やはり戦争が再び始まってしまいそうな気配があるということだった。兵は動いているしトーリアの動きもきなくさい。ノナーキー国王はトーリアから妃を迎えたが、それもトーリアに気を遣ってのこと、王は妃を複数持てるのだから名目だけ妃として遇しつつも実際は他の妃を迎えて実質的な役割を与え、敗戦国の妃は冷遇するのだろう、などと話している。
(……うう……勝手に聞いておきながら勝手にへこむのは違う気がするけれど……それでもちょっと、落ち込んでしまうわ……)
エセルバートはアリアを大切にしてくれているが、まだ「妃」としてではない。主にアリア側の事情のせいだ。
トーリアにしろノナーキーにしろ王は妃を複数持てるもので、それは歴史的にそうなってきているのだからここでアリアが異を唱えるのも違うのだが、言葉にされると落ち込んでしまう。
毎晩、エセルバートはアリアを……アリアの歌を、求めてくれる。
自分の歌が求められて必要とされるなんて初めての経験だったので、自分が誰かの役に立つことがこんなに嬉しいだなんて知らなかったので、離れがたいのだとは分かっている。
でも、それだけではなくて……
……彼の熱っぽい視線が、ときおり何かをこらえるように零される吐息が、アリアの心をかき乱してやまない。
アリアはちゃんと、彼の妃になりたいのだ。
そのためにも、生き延びなければ。
戦争を避ける道を探るために、アリア自身にもできることを探さなければ。
(そうよ! そのためのまずは一歩、情報収集! 私はあまりにも物知らず過ぎるから、少しでも何かを得て帰らないと!)
その第一歩が会話の横聞きというのは格好悪いことこの上ないが、大声でしゃべっているのだからいいだろう、と思うことにする。
その彼らは、今度はノナーキーの城のことに話題を移した。どうやらあちこちを移動してきたらしく、話題が豊富だ。
それによると、最近ノナーキー城は、なんだかトーリアの城のように、花がよく咲くようになってきたという。代わりにトーリアの城では花が褪せたり枯れたりしているとか。そちらはアリアもエセルバートから聞いている。
まさかお妃様が何かしたのか、いやいや嫁入り道具として何か持ってきたのかもしれない、何かってなんだ、古い王国だから戦勝国への献上物としてひそかにそういうものがあったのかもしれない……
(…………?)
面白おかしく噂しているところを悪いが、アリアにはさっぱり心当たりがない。
だがそういえば、エセルバートはノナーキーの城について、アリアに何か聞きたいようなそぶりを見せていた。
その前に話していたことを思い返すに、文脈的に、このことなのだろうと思う。
(ノナーキーの城で……花がよく咲くようになってきた……? まるでトーリアの城のように……?)
「……二人も、そう感じたりすることはある? ノナーキーの城の花々が最近、よく咲くようになってきたとか……」
コゼットは少々不満そうに言った。
「そういう気がしなくもありませんね。まあ、蛮族の城にしてはいいのではないかと思いますが。庭師の腕がいいのでしょうね」
ジルには聞いたものの答えを期待していなかったが、ジルは頷いた。当然です、と何やら確信ありげに頷く。
思わぬ反応に瞬いて、さらに聞こうとしたとき、コゼットが警告の声を上げた。
「危ない!」
叫んで立ち上がり、アリアに不自然に近づいていた男との間に入って庇う。男に被り物をひったくられそうになったので、アリアは慌てて両手で押さえた。
アリアとコゼットに抵抗され、護衛が駆けつけるまでもなく、男は諦めて逃げて行った。しかし護衛の一人がその不審人物を追っていき、残った護衛がいっそうアリアに注意を払う気配を感じた。
「あ、りがとう……。びっくりしたわ……」
コゼットにお礼を言う。
「まさか、被り物を狙われるなんて思わなかったわ……。油断していたわ。お金を持っていないから大丈夫だとばかり……」
「……まあ、財布を狙われることの方が多いでしょうね。その方が確実ですし。でも、被り物だから脱げやすいし取りやすいと思われたのだと思います……。繊細な刺繍が施されていますし、布地も一級品ですし、かさばらず売れそうだと思われたのでしょうけれど……」
「なるほど、そういうことなのね。改めてありがとう、助かったわ」
アリアは被り物を改めて押さえた。
いきなりのことでびっくりはしたが、恐怖は感じなかった。さんざん痛めつけられた経験のおかげで、痛くもないのに怖がったりはしない妙な胆力がついているらしい。
様々な人が歩いているが、さすがに銀髪は珍しい。アリアの顔を知っている人がいるとは思わないが、これからどうなるか分からないのだし、街中で特徴的な銀髪と顔とをさらさずに済んでよかった。助かった。
「被り物、首元で釦留めにしたりする方がいいのかしら……」
アリアの独り言にコゼットが答えた。
「それはかえって危ないです。首が締まってしまいかねませんから。取られそうになったら抵抗せず渡してしまった方がいい場合も多いんです。……今回は掏摸が刃物を持っていないようでしたし、人目も多かったので抵抗しましたが。状況によっては抵抗も悪手です」
「そうなのね……。コゼットは詳しいわね」
それは何の気なしの称賛のつもりだったが、コゼットは顔を曇らせた。
「……私、育ちが悪いんです。普通はこんな話、知らないですよね……」
アリアは首を横に振った。
「何を言うの。本当に助かったわ。今回だけでなく、いつも助けられているわ。ありがとう」
「……お妃様……」
コゼットはなぜか、やりきれないような顔をした。お妃様、と言ってしまってからはっとして周りを見回すが、こちらを気にしている人はいなさそうだ。物盗りは珍しいことではなく、まして盗られなかったのだから注視するまでもない。そういうことだ。
(コゼットが育ったのはトーリアで、ノナーキーにも物盗りがいて……当たり前だけど、社会の隅々まで完璧に掬い上げることはできないわよね。でも、少しでも、いい方向に持っていけたら……その手助けができたらいいな……)
被り物を素直に盗らせた方がよかったのだろうかともちらりと考えたが、やはりそれも違う。今にも飢えて死にそうなほどの体格ではなかったから、最悪の状況ではないはずだ。
今はとにかく、自分の足元を固めないと。自分の生き残る道を探らないと。アリアは気合を入れなおして立ち上がった。




