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アリアは少し前に、トーリアからノナーキーに旅をしてきたばかりだ。その時は嫁入り支度として仰々しく従者だの贈り物だのとアリア自身にも把握できていない――というよりも、アリアを部外者として用意された――賑々しいものに囲まれて移動してきたが、今度はこの身ひとつだ。しかもアリア自身には何も役目がない。要人を出迎えるとか、視察するとか、式典などに出席するとか、そうしたことを一切求められていない。
それはもちろん、エセルバートがアリアをないがしろにしているという意味ではない。アリアの立場はまだ生贄前提の宙ぶらりんなものだから、それを覆すための試行の真っ最中だから、重要なことを任せてもらえないのだ。
だからと言って、宿泊場所に引きこもってエセルバートの帰りを待つだけの日々を送るつもりはない。それではついてきた意味がない。
宿泊場所は国王所有の建物ではなく、宿屋などでもなく、なんと船の上で、船旅をもっとしていたかったと思ったアリアにとっては願いが叶ったような形だが、ずっとここにいるわけにはいかない。いろいろと興味深いが、初日にだいたいのところを見て回って冒険し、ひとまず気が済んだ。
かくしてアリアは、船でノナーキー風の朝食をエセルバートとともに美味しく頂いたのち、大きな被り物で顔と髪を隠し、侍女たちとともに――護衛にこっそりと守ってもらいながら――街に繰り出すことにしたのだった。
港町ゆえか、さまざまな国の人が行き交っているようだ。アリアのように被り物をしている女性もちらほらいる。大仰な被り物だが目立たずに済みそうでほっとする。
おしのびなので、王妃の身分を振りかざすようなことはできない。一般の人に混ざって街を歩き、あたりを観光もとい観察し、疲れたら軽く食べたり飲んだりする。そのくらいだ。
「……ですが、大事なことですよ。情報だってそうです。人はすぐ裏側を探りたくなる性質を持っていますが、公開情報が結局はいちばん大切で、頼みにすべきものなのですから」
コゼットの話に、アリアは頷いて同意した。
「たしかにそうよね。通行人には見せてもらえないあやしげなお店の裏側とか、なかなか会えない情報屋とか、そういう特殊なことや人を当てにするのは、何も知らない私には早いわよね。とにかく、見える限りのものを見ていかないと」
「そうそう、そういうことです」
意を得たりと頷いたあと、コゼットはじとりとアリアを見た。
「……それにしてもお妃……ええと、奥様。妙にたとえが偏っていませんか……?」
「え……っと。本を読んで、ちょっと予習をしてきたの」
「それ絶対、知識の仕入れ先を間違っていらっしゃいますって! 通俗的な物語本などを読まれたのでしょう!?」
「あ、はは……」
「…………」
コゼットは朗らかによく喋るが、ジルは相変わらず、必要以上のことを喋らない。侍女としてはしっかり仕事をこなしてくれるし、そういう人もいるだろうとアリアはたいして気にしていないのだが、コゼットは気になるようで不愉快そうにしていたりする。アリアにも同意を求められるのだが、曖昧に微笑んで首を傾げるくらいしかできない。
そんな風に話したりしつつ、街を歩き、水路を観察し、人々の言葉に耳を澄まし、ノナーキーの活気ある港町を歩く。
(トーリアとは全然違うはずよね……でも、比べられないのが惜しいわ。私はあの国のことを、あまりにも知らなさすぎるから……)
ごく幼い頃には両親に連れられて城外に出る機会もあったはずだが、もちろん覚えていない。しかも十年以上前のことだから、様変わりしている部分だって多いだろう。
だからアリアが知っているのはこのノナーキーだけなのだが、他の場所を知らなくてもわかる、活気がすごい。
人種も言葉も多様な人々がひっきりなしに行き交うし、港には商船や軍船がずらりと並んでいるし、市場からは物が飛ぶように売れていく。山間にひっそりとたたずむトーリアの街ではありえない光景だろう。
国力が、違いすぎる。トーリアが野蛮だ未開だなどと蔑んだノナーキーは、トーリアなど足元にも及ばないほど栄えている。
そのトーリアのプライドを支えるのが精霊信仰なのだが、森に住まい、不思議な力を持つとされる精霊は、人の目には見えない。しかし選ばれた人の子を通して力を示し、国を栄えさせたので今に至るまで信仰されている。
(……それも、おとぎ話になるくらい過去のことだけどね……)
不思議な力がどのようなもので、どのくらいの頻度で、どこの血筋の者が授かるか。それを知っているのは賢者くらいだろうが、当代の賢者は黙して語らない。
「……さま、奥様。お飲み物をどうぞ」
「……あ……ありがとう」
ぼんやりとトーリアのことを考えてしまっていた。瞬いて意識を戻すと、コゼットが冷たいレモネードを勧めてくれていた。ぼんやりしすぎて気づかなかったが、ちょっとした緑のある場所に来ていた。みな飲み物や軽食などを露店や売り子から買い、木陰のベンチに思い思いに座って休んでいる。それを見たとたん、足が疲れたと主張してきた。
座って、レモネードを飲む。もちろんコゼットとジルも一緒だ。護衛たちにも交代で休憩してもらうことにして、しばらくのんびりとする。
しかし歌によって鍛えられたアリアの耳は、のんびりするつもりの時間だったのに、気になる話を拾ってしまった。




