31
二人は馬車に同乗し、海の方へと下っていく。
馬車はもちろん城のもので、必要な物や資料などは別に運ばせているが、移動中に書類を裁くのも効率が悪い。移動時間は休息に充てることにして、こうして二人の時間を楽しんでいるのだった。
なぜかアリアはやたらと眠そうにしていたが、海が近くなってくると俄然、目が輝き始めた。
馬車の窓にかぶりつくようにして外の景色に目を奪われている。
長い髪が風に踊り、エセルバートの頬をくすぐる。嫁いできた当初は姫君としては髪が少し短めだったのだが、今ではすっかり長く美しい銀髪になっている。
後から知ったのだが、離宮で暮らしていた時に髪を無理やり切られたりもしたらしい。
考えるだけでも腹が煮えくり返るようだ。
アリアはまったく気にしていないが、髪を本人の同意なしに切るなど、それも容姿が政略的に武器にもなりうる王女の髪を切るなど、様々な意味で彼女を否定し、傷つけていることに他ならない。トーリア王家はどこまで彼女を貶めれば気が済むのか、胸が悪くなる。
そんな扱いをしていながら王女としてこちらに差し出してきたのだから、これはアリアだけでなくエセルバートも怒っていいことだ。
(トーリア王族どもには、しっかり思い知らせてやらないとな……)
エセルバートがそんなふうに物騒なことを考えているなどまったく気づかず、アリアは窓の外に目を奪われている。
エセルバートもつられて窓の外を見たが、やはり特に目新しいものはない。
「……なにか見て面白いものがあるか?」
「はい! 石造りの家々がなんだかざらついたふうに見えるのは、やはり海風を受けているからでしょうか。日差しも強いですよね、だから繊細で淡い色使いは好まれない気がします。私もトーリアの街の様子を知っているわけではありませんが、だいぶ様子が違いそうですね」
「……そうか」
エセルバートは目を細めた。車内だから日差しがまぶしいということはないが、アリアの笑顔がまぶしい。
こんなふうにはしゃいだ顔を見せてくれるようになったのも、ここ最近のことだ。こちらまで嬉しくなってしまうような朗らかさだ。
(あんな育ちをしておいて……よくこんなに素直でまっすぐにいられるものだ。歌のおかげで心を保てたというのは本当によかったな……)
彼女の歌はエセルバートの心を癒し、眠りに導いてくれる。
それだけでなく、彼女自身の心も保ち、自分で歌うことで自分を癒していっているのではないか、という気もする。
(……稀有なことだ)
稀有なことで、才能だ。
彼女の歌声は驚くほどのびやかで、澄んで、こころよく響く。いつまでも聞いていたくなる。
それは歌声だけではなく、こうやってはしゃぐ声もそうだ。
人形のようだった当初の印象とはかけ離れているが、こちらが彼女の素なのだろう。本当に、どれだけ押し込められてきたのか。
「すごい、見慣れない街路樹に、あれは何のための建物かしら……」
アリアと名ばかりの初夜を過ごした後、口約束を果たすために彼女の部屋に美術品を運ばせた時のことを思い出す。
彼女はそれを喜んだが、それ以上に、自然を楽しんだり建物の様子を物珍しげに見たり、そうしたエセルバートの目から見ると何ということもないような当たり前のものの方が、いっそう興味深く面白いらしかった。
彼女の目を通してみた世界は、どこまでも美しい。
「わあ、海が近づいてきた!」
アリアが歓声を上げ、ふと振り返り、ロイヤルブルーの瞳が、エセルバートを捉えた。
「同じですね!」
「何がだ?」
「エセルバート様の瞳の色が、今の時間の海の色にそっくりです! 時刻によっても天候によっても刻一刻と移ろう海の、その一部が写し取られたかのよう……」
そう言うアリアの瞳がきらきらとしていて、そちらの方がよほど美しいと思う。だが、そうか、とだけエセルバートは応えた。
一つ褒めれば二つ三つと褒めたくなり、構いたくなってしまう。今は我慢だ。
そこでふとエセルバートは思った。
トーリア人は豊かな森の広がる山々に生きることを誇りとし、低地や海を蔑む傾向にある。ひどい人になると野蛮だの未開だのと言いたい放題を言ってくれている。
だがアリアはその育ち方ゆえか、いい意味でトーリア人らしくない。
「私、ずっとずっと海を見てみたかったんです! お城からも遠目に見えましたが、もっと近くで見てみたいな、なんて。一つ叶ったらさらに望みが出てくるなんて、欲が深いですよね」
こんなことを言うのがトーリアの王女だなんて。欲深いと言うには慎ましすぎる願いに思わず笑みを誘われる。
「私は海を見慣れているが、そんなに面白いか?」
「面白いし、美しいです! きっといつまで見ていても飽きません……エセルバート様のお髪もお肌も、海が似合いますね」
「……トーリアの上流階級の者は髪や肌の色素が薄いことを良しとするのだと思っていたが」
「そうみたいですね。でも、個人の好みならともかく、集団としての好みだなんて……私は好きになれません。だって当てはまらない人にとっては失礼すぎる話でしょう?」
トーリア人の理想を詰め込んだような容姿のアリアがそう言うのがおかしくて、愉快で、思わず吹き出した。
虐げられずに成長していれば、アリアはきっとトーリアの社交界の男性の視線を一身に集めただろうに。
長い銀の髪、ロイヤルブルーの瞳、白い肌に華奢な体つき……髪が金色だったら完璧なトーリア美人だ。銀髪が悪いわけではなく、珍しすぎるから理想像からは外れている、それだけのことでしかない。
(……まあ、今となっては遅いが。彼女はもう私のものだ)
もうアリアをトーリアには返さない。美しくなった彼女を見て、せいぜい指をくわえていればいいのだ。それに彼女の真価は容姿ではなく、その心根にある。
「エセルバート様こそ、美しくていらっしゃいます」
屈託なくそんなことを言われて、つくづく自分の目は節穴だったと思う。トーリアから来た、お高く留まった姫君だろうと彼女のことを決めつけていたのだ。
それこそ海の色のようにくるくると変わる彼女の表情を見ながら、エセルバートは己の狭量と幸運に思いをはせた。




