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王と歌姫  作者: さざれ
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 ノナーキーの城は海にほど近いためなのか、猫が出入りするのを時々見かける。

 この日は私室に続くバルコニーに来ていたので、もう少しよく見たかったのだが、アリアが近づくと猫は逃げてしまった。

「ああ……」

 残念がって声を出したアリアに、部屋にいたノナーキーの侍女たちが口々に慰めの言葉をくれた。

「少し驚いただけでしょう。また来ますよ」

「王妃殿下がお歌いになれば寄ってくるかもしれませんね」

「……そうだったらいいわね。今度試してみようかしら」

 動物の鳴き真似はしたことがないが、試してみてもいいかもしれない。

 そんな風に話していると、コゼットが微笑ましげにくすりと笑った。

「王妃様、どんどん感情豊かになられますね。ノナーキーの生活が合っているのでしょうか。それとも王様のおかげとか?」

「…………!?」

 かあっと頬を赤くしたアリアに、またコゼットたちが笑う。

 アリアは頬を押さえながらか細い声を出した。

「そう……かしら……」

 そうですとも、と言いたげにコゼットが大きく頷く。

 確かに、最近は感情が揺らされることが増えた。今もこうやって、残念がったり、恥ずかしがったり、以前の自分では考えられないほどさまざまな表情をしていると思う。

 トーリアの離宮で、アリアは人形のようなものだった。

 うつろな表情で、暴力を受けたときにだけ生理的な反応として表情を歪めるくらいで、憎しみがあると自覚しつつも表面にも表情にも出てこない……そんな状態だった。

「そういえば……王妃殿下のお歌は、お母様譲りだとか……」

 そう言ったノナーキー人侍女に悪気はないのだろう。アリアもそのことを、特に隠してこなかった。

 だが、次の言葉で思わず平静を欠いた。

「お母様も誇らしいでしょうね。大事に育てた娘にお歌が受け継がれて……」

「…………。……そうだといいわね」

 アリアはなんとか気力をかき集め、必死に平静な態度を保った。


「…………歌ってくれないのか?」

 その夜、なかなか歌い出さないアリアに、エセルバートが声をかけた。

「……すみません、少しだけ待っていただけないでしょうか……」

 だが、歌はなかなかアリアの喉から出てきてくれない。

 アリアの様子がおかしいことに気づいたエセルバートが起き上がり、アリアも起き上がらせて向き直った。

「どうした、何かあったのか?」

 気づかわしげに覗き込まれながら問いかけられ、アリアは声を詰まらせた。

「すみません……。こんなこと、初めてで……」

「喉が痛かったり、体の調子が悪いわけではないのだな?」

「それは大丈夫です」

 真っ先にアリア自身を心配してくれたエセルバートに、安心したせいかぽつりと言葉が零れた。

「言われたんです。大事に育てた娘に歌が受け継がれて、お母様も誇らしいだろうと……」

 ぽつり、ぽつりと雨が降り出していくかのように、言葉が零れ落ちていく。

「分かっては、いるんです。そう言った方が、私の母が出奔したと知らないことなど。本当にただの世間話で、私のことを持ち上げてくださったのだと。でも、なぜか今日は駄目だったんです……。……母のことを……私が、捨てられたことを……考えて、しまって……」

 つらく苦しかった時期、アリアは昔のことをなるべく思い出さないようにしていた。美味しかったものや、華やかだった離宮の様子、父に慈しまれたこと、母から可愛がられたこと……

 ……そうしたことを思い出してしまえば、落差のひどさに耐えきれない。

 それだけではない。

 考えてしまうからだ。……恨んで、しまうからだ。自分が、父にも……母にも、捨てられたのだということを。

 だからアリアは、感情のよすがを、父や母との思い出ではなく……歌だけに求めた。切り離された純粋なものとしての歌だけに。

 歌は母から教わったものだ。母との思い出があるものだ。そんなことは分かっている。

 しかしそれは前提に過ぎない。歌は歌だ。歌っていれば、余計なことは振り捨ててしまえる。

「……そういえばそなたは、父だけではなく母のことも、語らなかったな……」

 エセルバートが静かに、納得したように言った。

「子供であれば……親に助けを求めたり、親のことを頼ったりするものであろうに……」

「語りたく……なかったのです。でも、私……もっと、平気だと、思っていたのに……」

 思い出してしまう。自分が捨てられたことに向き合ってしまう。悲しくなってしまう。……恨んでしまう。

 いやいやをするように頭を振るアリアを、エセルバートはそっと抱き寄せた。

 子供にするようにぽんぽんと背中を軽く撫でてくれる。

「悲しんだり恨んだりすることは悪いことではない。感情の当然の動きだ。喜んだり感謝したりする、そういうことがあるならば、その逆だってあって当然だ」

 何も悪いことではない、むしろ当たり前の揺り戻しが来ている、とエセルバートはアリアに言った。

「歌だけに託していた感情が、きちんと心に戻ってきている。そのことの証左だ」

「……エセルバート様……。……私……」

 すがるように、アリアはエセルバートの胸に耳をつけた。

 とくとくと、少し早い鼓動が聞こえてくる。自分の鼓動も少し早めに脈打っている音がする。

(この心に、感情が……)

 歌に心を託していたアリアは、自分の体がいくら痛めつけられても、いくら負の感情をぶつけられても、どこか他人事のようだった。

 もちろん痛いし悲しいし腹が立つ、しかしその悲しさや腹立たしさが薄皮を隔てたようにぼんやりとして、表面に浮かび上がってはこなかったのだ。

 だから痛みだけを、身体的な苦痛だけを耐えればよかったのだが……

「……エセルバート様……心って、難しいですね……」

「……そうだな」

 ゆっくりと、人形が人間らしくなっていく。

 アリアは自分の変化を、驚く思いで見つめていた。

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