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「いいえ、知りません」
ほっとしながらアリアは答えた。
閨教育、閨事、そういった言葉が出るたびに、自分はそれを知らないのだと伝えそびれてきたが、ようやくはっきりさせられる。
「そうか……。まあ、そうだろうな……」
心なしかがっかりした様子のエセルバートに、アリアは言った。
「ですので、教えてくださいませ。閨教育なるものを受けておらず、閨事とは何かを知らない私ですが……」
「……っ!? 知らないなら、迂闊にそのようなことを言うな! そなたのためだから、頼むから、煽らないでくれないか!?」
「…………? 分かり、ました……?」
分からないが、とりあえず頷いておく。理由は分からないが、軽々しく尋ねてはいけないということは分かった。そういえばコゼットも、ジルに咎められていた。
エセルバートは大きく息をつき、アリアから体を離した。
「あ……」
温もりが離れてしまうのが惜しく、思わずアリアは引き留めようとした。殴られる蹴られるではなく、すれ違うようなわずかな接触でもなく、こんなふうに誰かと触れ合うなんて、本当に久しぶりのことだったのだ。
アリアがあまりに寄る辺ない表情を浮かべてしまったせいだろう、エセルバートは目を見開き、動きを止めた。
「~~~~!」
彼は何やら葛藤する表情になり、頭をぐしゃりとかき回し、深呼吸をし、しまいには諦めたような悟ったような表情を浮かべた。
「……来い」
アリアを引き寄せ、再びその腕の中に閉じ込める。そしてゆっくりと、髪を撫でてくれた。
「……そういえばそなたは、幼子のように寝つきがいいな。精神面も子供と同じだと……思えば、なんとか……」
「もの知らずで、申し訳ありません……」
「いや、育ってきた環境を思えば、むしろしっかりしすぎている。歌のおかげなのだろうな、言葉づかいも問題ないし、所作も基礎ができている。知識もこれから補っていけばいい。問題なのは……そこではなく……」
「……? では、どこが問題なのでしょうか?」
見上げて問えば、エセルバートは言葉に詰まった。少しの沈黙を挟んでから言う。
「…………。……初夜を、儀式と言っていたな? 何も知らないのだろう?」
「はい……」
「それが、問題なのだ。……とにかく今は、よく食べてよく眠れ。もう少しそなたが成長してからの話だ」
「分かりました。そういえば最近は栄養と睡眠のおかげか、体も成長してきたようで……」
「いいから休め!」
なぜかエセルバートの顔が赤い。アリアは首を傾げながら、彼の腕の中で、生きることを許された喜びを噛み締めた。
「……最近、お妃様との仲がよろしいようで」
「……っ!?」
執務室にちょうど二人しかいないタイミングでダスティンからそんなことを言われ、エセルバートは思わず肩を跳ねさせた。
ダスティンはにこにことしている。
「いやー本当、よかったですよ。陛下がいくら頑丈だからといって、眠れないのではいつお倒れになってもおかしくなかったですから。不眠はもうすっかりよろしいのですか?」
「……ああ。改めて礼を言う。お前がアリアに歌を頼んでくれたらしいな」
「名前呼び! 本当に仲良くなられたんですねえ……」
余計なことを言うなとぎろりと睨むが、ダスティンはまったく怯まない。
ダスティンは武の心得がないが、これでも高位の貴族であり国王の側近として、きれいなだけではない政治の世界や社交界を生き抜いてきた立場でもある。これもある種の戦場で、ある種の胆力が鍛えられるものだ。
エセルバートは溜息をついただけでこらえ、話の方向を変えた。
「元はといえばお前がそうなるよう勧めたことなのだが、分かっているだろうな? 彼女がていのいい人質で、やがて生贄になるべき立場にあることを知らなかったとは言わせない」
「それはもちろん、存じています。ですが正直、ここまで上手くいくなんて思ってもみませんでしたねえ……」
「……っ」
アリアがエセルバートの不眠をうまく治せればよし、治せなくても損はない、そのまま生贄になってもらえばいいだけだ……その冷徹な判断は政治的に正しいのだろうが、大間違いだ。
(……だが、落ち着け。アリアは敵国出身なのだし、戦争において国王の側近がこうした判断を下すことは間違いではない。それにこいつは、アリアが苦労してきた事情を知らないのだし……)
そう思うと少し落ち着ける。少し優越感も湧いてくる。
すぐに冷静になれるのは、しっかりと睡眠を取れているからだろう。本当にありがたい。
「……何ですか、その得意げな表情は」
「いや、別に?」
「なんか腹が立ちますねえ……。でもまあ、いいです。……その、お妃様のことですが」
ダスティンが声を潜める。
「調べさせましたが、驚くほど情報が出てきません。生まれた時は盛大に祝われましたし、子供時代のことは分かるのですが、母君がいなくなって体を壊し、以降はずっと離宮で静養していた……ということですが……それなのに医師や薬師、教師、侍女や使用人……そういった人々の出入りの記録がまるでなかったのです。情報を得ようにも、見つかりません」
「……そうだろうな……」
アリアの体の状況が、彼女の話を裏付けている。それこそ王族でも捕まえなければ情報は出てくるまい。閉鎖的なトーリア王城の中のことを、ダスティンはむしろよく探ってくれた。
「そこまで確かめれば、もう充分だ。動かせる人員にも限りがあることだしな。アリアのことは、あとは実際に王族の誰なり吊るし上げて吐かせるしかあるまい」
「…………ということは」
「私はもう、彼女を生贄にするつもりはない。なんとか生かせるように動くつもりだ。これは命令だ、私に協力しろ」
「……いちおう申し上げますが、悪手ですよ? これだけ優勢に進めて勝利した戦争で得たものが、ほとんど人の住まない山ばかりの土地と、微々たる賠償金と、お姫様だけ。トーリアが再び攻めて来るだろうことは確定的で、そうなってもお姫様を殺さないとなると、兵の士気は低まりますし民の不満は高まります。ノナーキーにとって良いことが一つもありません」
その通りだ。彼の言うことは正しい。一点を除いて。
「お姫様ではない、お妃様だ。もう彼女はノナーキーのもので、私のものだ」
ダスティンは目を見開いた。
「うわあ……重症ですね……。焚きつけたのは私ですが、まさかここまでになるとは……」
「分かったら、さっさと案を出せ。こき使ってやるから」
「横暴! でもまあ、お給金を上げてくださるなら頑張ります。……ところで」
ダスティンは少し声を潜めた。
「トーリアの『夢の城』について、少々気になる話を聞いたのですが……」




