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「陛、下……?」
「あまり私を煽らないでほしい。我慢強い方だとは思っているが、今はとにかくやりきれない気分だ……目の前にいるそなたにぶつけてしまいたくなるくらいに」
「…………」
アリアは大人しく口をつぐんだ。
何も分かっていない中、下手に口を開くとさらにまずいことになる。さすがにそれは理解した。
大人しくしているアリアの肩を、背中を、頬を、エセルバートが撫でる。温かさと同時に慈しみが伝わってきて、アリアはなんだか泣きそうになった。
(……泣き方なんて、もうとっくに忘れてしまっていると思ったのに……)
泣いても状況が改善されないどころか面白がられて嘲られるだけだと身に染みて知ってから、アリアは泣かないようにしてきた。涙を笑われることは、自分の心を笑われることと同じだったからだ。自分の心は見世物ではない。面白がらせてたまるものか、と。
だから、死ぬときも泣かない。泣き叫ぶことなどしない。
アリアが生贄であることを知らせたハロルドやジュリアとのやり取りを思い出す。殺されるときに泣き叫んでもらわなければならないから、声を残しておくと。そのやりとりで余計に心が固まったのだが、それがなくても死に際に泣き叫ぶことはすまいと思っていた。自分の心を、そんなふうにさらけ出してなどやらない。
(なのに……おかしい……)
痛くもない、苦しくもない、死にそうでもない、それなのにどうして今、自分はこんなにも泣きそうになっているのだろうか。
エセルバートは怒っているはずだ。それなのに、アリアに触れる手が優しすぎて、それがますます心を掻きむしる。いてもたってもいられないような、それなのにいつまでもこのままであってほしいような、そんな時間が流れる。
楽器を爪弾くようにアリアの髪を撫で、エセルバートは静かに声を落とした。
「私はもう、そなたを殺すつもりなどない。恩を受けたからでもある。さんざん利用してから殺すなど、鬼畜の所業ではないか。仮にそなたなしでも眠れるようになったとしても、用済みだから殺すなどと、そんなことは絶対にしない」
揺るがない声で、静かな口調で、断固として言う。
「恩のことを抜きにしても、殺せるわけがないではないか。何の咎もない娘を、疎外され虐待されてきたのに一族の罪を身代わりに負った娘を、素知らぬ顔で生贄にするなど。できるわけがないではないか」
「…………陛下……」
「名前で呼んでくれないか。せめて二人の時は」
「……エセルバート、様……」
ふわりと、彼の表情がほころんだ。その表情の甘さに、心が飛び跳ねる。
改めて認識し直すまでもないが、彼は整った顔立ちをしている。体つきも、いかにも武人といった感じだ。そのことを急に意識してしまい、急に気恥ずかしくなる。
「そなたの歌には、力があるな。毎晩聞いていてなお、足りない。もっとと求めてしまう……」
アリアは彼に、さまざまな歌を歌ってきた。古代の韻文を旋律に乗せたものだけではなく、遠い外国の歌や、船乗りが網を引き揚げるときに歌う歌、子供の遊び歌まで、さまざまに趣向を変えて。
まったく違う場面で、まったく違う人々によって歌われる歌だが、本質はひとつだ。――心を揺り動かす、歌とはそういうものだ。
歌は、揺らぐもの。とどまらないもの。そして確かに、その中には力がある。
「エセルバート様……」
「そなたを手放したくない。歌をずっと聞いていたい。私はそう思うのに、そなたは違うのか? 歌って、生きていたくないのか? 死ぬ覚悟を固めているなど……妃として生きるのではなく、死を以て責任を全うしようとするなど……あまりにも、悲しすぎるではないか」
(ああ……このひとは……)
アリアに向かって、アリアのために、怒ってくれていたのだ。死を受け入れていたアリアに、生きる意思に欠けていたアリアに。
「……ですが、戦争が……」
「なんとかしてみせる。再戦を許さないか、させても人質の王女を生贄にという声を封じるか、なんとか道を探る。だから、私と生きたいと……望んでくれないか?」
アリアの唇が震えた。大きく瞬き、しかしまだ涙は零れない。
「私が……望む……?」
アリアの意思を尊重してもらうことなんて、この十年間で一回もなかった。望めば……叶えられるかもしれない。そうでなくても……望むことができる、それだけでも夢のような幸福だ。
(生きていられるかもしれない……この人のそばで、歌い続けていられるかもしれない……)
そう思うと、目の前が開けるようだった。頷き、アリアは言った。
「エセルバート様のお怒りを……受けます。ありがたく頂戴します。そのうえで……望ませてください。生きることを、望めるのなら……」
エセルバートも頷いた。
「失わせてなどなるものか。そなたの心は凍り付いていたようなもの。ようやく雪解けを迎え、春はこれからだ。ひどい悪意にさらされてなお染まらなかった類なき心を……これから育てていくべきだ」
「…………褒めすぎです」
「いや、まだまだ足りない。褒め足りないし、甘やかし足りない。これからは子供時代の分を取り戻すように、食べて、眠って、学んで、さまざまな経験をしていくのだ……」
……そこまで言って、ふとエセルバートは微妙な顔をした。
「……七歳の時から冷遇が始まった、と言っていたな?」
「はい」
「それ以降は教育を受けず、こき使われていたと言っていたな?」
「そうです」
「…………。……あまり、口に出して尋ねたくはないのだが……」
そして、聞いた。
「……閨のことは、知っているか?」




