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「……失礼いたします」
「ああ、よく来てくれた。かけてくれ」
そうして迎えた夜は、少なくとも表面上はいつも通りに始まった。
小卓には温かい飲み物が用意されている。お酒ではなく、眠りを妨げる成分の入っていないお茶だ。ノナーキーは沿岸国でさまざまな国のものが集まりやすいので、飲み物もいろいろと選択肢がある。今回のものは北国に咲く花々を乾燥させて煮出したものに蜂蜜を垂らした、喉によさそうなものだ。
勧められたので、お礼を言って口にする。目の前に花畑が広がるような味に、思わず唇が緩む。
「美味しいです」
「それはよかった。用意させたかいがあった」
(昨日は少しスパイスが入ったホットミルクだったし……それも美味しかったし……気を遣ってくださっているわ……)
アリアが夜に歌を届けに来るようになってから、少しずつ、そうした変化がもたらされるようになってきた。もちろん彼自身のためもあるだろうが、アリアも過ごしやすいようにとの気遣いが感じられる。
少なくとも平穏に始まった夜に、今日もいつも通りに歌っていつも通りに終わるかもしれない、とアリアはかすかに期待したが、やはりそううまくはいかなかった。
「ここへ」
ここへ来いと示されたのは、いつものようにベッドの向かい側――ではなく、同じ側だ。広い寝台は大人二人が両手を伸ばしても触れ合わないくらいの余裕があり、なんとなくの暗黙の了解でお互いが半分ずつ使うようにしているのだが、その目に見えない境界を踏み越えてくるように、と手で示される。
(…………。……やっぱり、相当、怒っていらっしゃるようね……)
逆らいがたい雰囲気を放つエセルバートに、アリアは諦めて言われた通りにした。
(どうして怒られているのか、正直まったく分からないのだけれど……)
分からないが、それを言ったらさらに怒られることは分かる。アリアは口をつぐんだまま示されたところへ腰かけた。
と、その腕が引かれた。え、と思ったときにはすでに、彼の腕の中にいた。
「っ、陛下!?」
「どうした、我が妃どの?」
(いえ、その、呼び方……!)
我が妃どの、などとわざとらしく呼びかけられてアリアは混乱した。だが、そこを突っ込めないのは、もっと混乱することをされているからだ。
寝台の上で、後ろから抱きしめられている。
(…………!? ……!?!? …………!?!?!?)
大混乱に陥っていると、くすりと耳元で笑う声がした。
「どうした、そんなに固くなって。私たちは夫婦だろう? 結婚したのだろう? なにもおかしなことはない」
……そういえば確かに、婚姻関係にある者どうしの抱擁はまったくおかしいことではない。互いを出迎える夫婦が抱擁しあう場面などいくらでも目にする。男女間でなければもっと気軽に挨拶として行われる、抱擁とはその程度のもののはずだ。
(……そのはず、なのに……! 何なの、この、いたたまれなさは……!)
薄い夜着が、いやに心もとなく感じられる。頬が熱い。自分は風邪を引いてしまったのだろうか。
かちんこちんに固まっているアリアの髪に、エセルバートが繊細な細工物に対するかのように触れた。
「美しい髪だ。色も、艶も、輝きも。しかしこの国に来た当初は、その美しさもくすんで表に出ていなかった。栄養状態が悪かったせいだな?」
「……あの、こちらで美味しいものをたくさん食べさせていただいて……」
「全然足りない。それなのに私は、そなたが料理に不満を持っているのだろうなどと、なんという思い違いをしていたのか……」
懺悔するように零す。アリアはますますいたたまれなくなった。
「私がトーリア人なのは確かですから……そうお思いになるのも仕方ないことかと……」
「いや。トーリア人としてではなく、そなた自身を見るべきだったのだ。それなのに私は、それを避けていた。生贄として失われるはずの者に心を傾けるまいと……」
「……そうだったのですね……」
最初こそ冷たい態度だったが、本当は優しい人なのだ。
アリアへの扱いを見ていても分かる。敵国出身の王妃を憎んで邪険にしてもおかしくないのに、何不自由なく過ごさせてくれて、暴力をふるうどころか、ふるわれた暴力に対して憤ってくれる。
(……なぜか今、感情の矛先がこちらに向かっている気はするのだけど……
それでもさすがに分かる。彼はアリアのことを嫌って不愉快になっているのではなく、アリアのために怒ってくれているのだ。
もしかして自分は、とんでもなく運がいいのではないだろうか。もうすぐ死ぬとしても、こんなに優しくて、素敵な人と夫婦になれたのだから。
名前ばかりだとしても、家族だ。アリアのためを思ってくれる、大切な人。
だから、もう充分だ。
彼に向き直り、アリアは笑顔で言った。
「私にしてくださったことのすべてに、お礼を申し上げます。短い間ではありましたが、私はトーリアの王女として、そしてノナーキーの王妃として、役目を果たしたいと思います。生贄としての私の死を、どうか有効にお役立てください」
エセルバートにはそれができるはずだ。以前よりも彼の近くにいて、少しは話をする機会もできて、彼が優秀な王で有能な武人であることは分かっている。部下からも慕われ、出入りする人々の様子を見るにも、ノナーキーが勢いと活気のある豊かな国であることが分かる。
トーリアにいた頃は必要な情報がほとんど入って来ず、人々の会話を漏れ聞くくらいしか情報を得る手段がなかったが、ノナーキーに来てからはそうした制限がまったくなかった。お国の人と連絡をお取りになる際はお知らせください、と使用人から念押しをされるなど、アリアからの情報漏洩を懸念する様子はあっても、その逆はなかった。事実、アリアが何を知ろうとも構わないということだったのだろう。ノナーキーには隠すべき卑劣さや弱みなどはなかったのだ。
そうして情報を得、確信したのだが、エセルバートはトーリアを悪いようにしない。敗戦国の国民を虐げたり、必要以上の干渉をしたりもしない。それはこの戦だけでなく、彼がこれまでに築いてきた実績への信頼でもある。
生贄になっても、無駄死にではない。そう確信できる。
「……あ、でも、ひとつだけ」
「………………何だ?」
「都合のいいやり方で殺してくださって結構ですが、殺されるときに泣き叫ぶことだけはしないと決めているのです。そのことだけご承知おきくだされ……ば……」
最後まで言うことはできなかった。
エセルバートが表情を変えないまま、壮絶な怒気を放っていたからだ。
目を見開いたアリアに、底冷えのするような声で言った。
「……私がどうして怒っているのか、まるで理解していないようだな……?」




