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「は……!?」
エセルバートは狼狽した声を上げた。アリアは少し首を傾げた。
(陛下が焦った顔をなさるところ、初めて見た気がするわ……)
だが別に、アリアが変なことをしたわけではないはずだ。夜に寝台で眠るのは当たり前だし、初夜の時は彼もアリアに寝台を使うよう言ったではないか。立場が逆になっただけだ。
「明日までに読み進めなければならない本だとか、そういったご事情があるのでしょうか?」
「いや、特に、そんなことはないが……」
アリアはエセルバートの手元を見た。古代の軍師の側近が物したとされる戦記だ。有名な本で、現代ノナーキー語に訳されたものが図書室にあったので、さわりだけ読んだことがある。
(陛下がお読みになっているのは原文みたいね……。私も古語はまだあまりものになっているとは言えないけれど、トーリア語の素養があるから何とかなりそうな気はしているのよね……)
「少し、拝見しても?」
「あ、ああ」
許可を得て、手元を覗き込む。アリアの髪がさらりとエセルバートの腕にかかり、彼がびくりと身を震わせた。すみません、と謝って髪をかきやるが、なぜか彼はさらに狼狽したようだった。うなじに視線を感じるのだが、訳が分からない。
(……なるほど、槍の平原の戦いの部分ね……)
場面だけちらりと確認し、アリアは頷いた。
「お急ぎにならないのでしたら、この先の展開を少し歌ってさしあげられると思います。どうぞ、寝台に横になってお聞きください」
「は……!? 歌……!?」
「ええ。ダスティン様から頼まれました。陛下に歌って、眠らせて差し上げてほしいと」
「あいつ……!?」
エセルバートは唸った。
アリアは間接的にしか聞いていないのだが、エセルバートはダスティンに話をしていたそうだ。不眠が相変わらずひどいが最近は昼に少し眠れるようになってきて、そういうときは決まって歌声が聞こえるのだと。この歳になって子守歌でもあるまいに、と話したエセルバートの言葉は冗談めかしたものだったが、ダスティンはそれが冗談以上の解決策になる可能性を見出した。そしてアリアに今回のことを依頼した。そういうわけだ。
「そういえば……そなたの母親は歌い手であったな」
「そうです。私も少しは教えを受けております」
それも七歳以前のことで、それ以降は完全に我流だが、そこは言わないでおく。今は安心してもらうことが第一だ。
「陛下のご厚意で、私はお城の中で自由にさせていただいております。なるべく人に聞かれないように奥の方で歌っていたのですが……どうやら歌声が届いてしまったようで……申し訳ございません」
エセルバートやダスティンの耳に届くくらいには聞こえてしまっていたようで、アリアは頭を下げた。
「いや……それはいいが……そうか、そなたの声だったのか……」
エセルバートは首を振り、なにか納得したような、納得しがたいような声を出した。
事情を話したが、困惑されてはいても厭われてはいないらしい。それなら多少強引にしても大丈夫だろう。
(眠れないのは、つらいものね……)
ダスティンに聞いたのだ。エセルバートは夜にほとんど眠れておらず、昼にうたた寝をしてなんとかしのいでいる状況だと。
王のそんな秘密を敵国出身の王妃に明かしていいのだろうかと危ぶんだが、笑顔で返された。寝所を共にする王妃がそのことを知らない方がおかしいと。まあ、確かにその通りではある。
(些細なことを知られたところで、ノナーキーの優勢は揺るがないでしょうしね……)
それよりも、エセルバートの不眠を改善することの方に重きを置いたのだ。これでうまくいけば弱みそのものが無くなるのだから、賭けてみてもいいということなのだろう。
納得し、同情したアリアはダスティンの頼みを引き受けた。
そして今、エセルバートの寝室にいるというわけだ。
そのエセルバートはたじろいだ様子でアリアを見返している。体格差があるため無理に引っ張っていくわけにもいかないし、そもそも国王陛下にそんなことをするのはまずいだろう。アリアは言葉での説得を試みた。
「一度、試させてくださいませ。もしも歌で駄目なら、音読して差し上げますから」
「……子守歌に読み聞かせとか、どんな閨事だ……」
(閨事……?)
そういえば、閨教育がどうとかコゼットが言っていた。今まで忘れていたが、アリアがそういった教育を受けていないと伝えた方がいいのだろうか。
だが、アリアが口を開く前にエセルバートは立ち上がって寝台へ向かった。
「眠くはないし、眠れそうな気もしないのだが……眠らせてもらえるならありがたい。やってみてもらえるか?」
「かしこまりました。本をお借りしても?」
「ああ」
許可を得てアリアは頷き、本を持って寝台の横に立ったが、エセルバートがそれを止めた。
「立たせたままでは居心地が悪い。手軽に持ってこられそうな椅子もないから、寝台でよければ座ってくれ」
「では、そのように」
立った姿勢の方が声は出るのだが、大声は必要ない。むしろ近くで囁くように歌った方がよさそうだ。
エセルバートが横たわって寝具を引き上げたのを確認すると、アリアは寝台に腰かけて静かに息を吸い、歌い始めた。
――見よ、野を行くはつわものの群れ、長き槍たずさえて声高らかに、牡鹿のごと勇猛さもて、かなたに見ゆる旗さして行く……
韻文で書かれた古代の戦記は、旋律を当てはめるだけで歌になる。音節と音符を合わせるかたちで作られた旋律が多数あるので、アリアはその中から、音の上がり下がりが少ない静かな雰囲気のものを選んで言葉を乗せた。
古語ではあるが、音だけは拾える。正直に言って意味の分からない単語もかなりあるが、綴りと発音の対応だけ知っていれば音は分かる。
懸命に文字を辿って歌に乗せ……ページをめくるあたりでアリアはふと我に返った。すっかり没頭して歌っていた。それに、エセルバートも静かにしているので集中を妨げるものがなかったのだ。
(陛下……?)
静かにそちらを見ると、エセルバートは目をつむり、穏やかな寝息を立てて寝入っていた。




