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歌が、聞こえていた。
ぼんやりと、エセルバートは目を開けた。長椅子からゆっくりと体を起こす。
窓からは午後の光が差し込んできている。例によって、書類仕事の進捗が芳しくないからとダスティンに追い出されるようにして隣室に押し込められ、仮眠を取っていたところだった。
相変わらず、夜は眠れないままだ。戦争から帰ってきて日数が経っていくが、昼間の書類仕事はやはり戦争関連のものが多く、そこから離れられない。夜の安眠も戻ってこない。
ただ、なぜか最近、昼に深く眠れるようになってきた。うとうとして体と頭をなんとか休ませる程度だった眠りが、まともに形を取るようになってきた。
(昼夜が逆転しているからこれはこれで問題ではあるのだが……何にせよ、ありがたい)
眠気は来ないが、眠らなくてよくなったわけではない。昼寝とはいえ眠れるようになったのは大助かりだ。
やはり、時間がすべてを解決してくれるということなのだろうか。だが……遠からずまた、戦争が始まってしまう。
名ばかりの妃アリア……彼女の母国と。
彼女の命も、そこまでだ。
……そのことを考えると、眠れてすっきりとしたはずの頭がふたたび重くなる。
彼女とは、たいして関わりを持っているわけではない。都合がつく時に食事を共にするくらいだ。夜も寝室を訪ねるわけではないし、昼も共に行動するわけではない。
不自由をさせているつもりはないが、自由も城の中でしか与えていない。文句も言わずおとなしくしてくれているらしいのがありがたい。
ただ一つ、気にかかることがある。
(なぜか……男どもが彼女の傍に寄って行くようなのだが……)
仮にも王妃に護衛が一人というわけにもいかないので、複数人を交代制にしているのだが、トーリア人の王妃をよく思っていなかったはずの彼らが、なぜか絆されていくようなのだ。
(確かに、彼女は……なぜか日に日に美しくなるようだが……)
何も事情を知らない使用人からは、夫婦仲が良いからですね、などと微笑ましそうに言われることがあるが、大いなる勘違いだ。エセルバートは彼女に何もしていない。
そして今後も、するつもりがない。
ノナーキーの王侯貴族はみな知っている。彼女が名ばかりの王妃、やがて生贄になる者だということを。
護衛の男ばかりではなく、男女問わず、なぜか彼女は受けがいいようだ。出入りの芸術家とか、使用人の女性とか、妙なところでつながりを持っているらしい。
内部工作を企んでいるのかと疑いたくなるが、疑いを立証する証拠はいっさい上がっていない。ただ疑わしいというだけでは何をするわけにもいくまい。
(……彼女のことを考えるのはやめだ、考えても今はどうにもならない)
彼女自身のことも、戦争のことも。
エセルバートは頭を振り、立ち上がった。
――その夜。
エセルバートはいつものように、寝室ではなく隣接した部屋で本を読んでいた。古語で書かれた難解なもので、分厚い辞書を横に置かないと読み進められない。
書類仕事は執務室でまとめて行った方が効率がいいし、下手に動かして失くしたりしても面倒なので、私室には持ち込まないことにしている。ダスティン以外の部下も優秀なので、寝る間を惜しんで進めないと捌ききれないといった状況には滅多にならない。
眠れないとはいえさすがに体を動かす気にもなれないので、せめて少しでも眠気が訪れないかとなるべく難しい本を読むようにしている。今日のもののように古語で書かれたものとか、数式が羅列されたものとか、とにかくとっつきにくいものを。
まるで興味を持てない物語本や詩集にも手を出してみたが、眠気が来る前に嫌気が来たので諦めた。退屈なら眠れるというものではないとつくづく分かった。
そんな有益かつ不毛な時間を過ごしていると、ノックの音がした。
切羽詰まった感じはしないので、なにかちょっとしたことが起きたか確認したいかくらいのものだろう。エセルバートは声を上げて入室を許可し、ついでにお茶でも頼もうかと振り向き――声を上げた。
「……そなた! いったい何用だ、こんな時間に……!」
そこにいたのは、アリアだった。薄い夜着の上にストールを羽織り、長い銀髪を下ろしている。そうして佇む様子はまるで月の化身のようで、思わず目を奪われる。
机の明かりだけで本を読んでいたので、室内には窓からの月光が落ちている。アリアは光を踏むようにしてエセルバートに近づき、静かな声で言った。
「陛下、どうぞ寝台にいらしてください」




