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アリアはベッドの端に腰かけて王を待った。
夜の儀式である初夜は、昼の儀式である結婚式とは違い、衆目の中で行われるものではないし、決まった手順もないという。言われたことに従えばいいらしいので用意もいらないと思ったのだが、何か必要だったのだろうか。閨教育なるものがどういうものなのか聞きそびれたが、どちらにしろ今からでは間に合わない。
アリアが知っている男女間の知識はといえば、男性が許可なく女性に、特に胸や腰や唇に触れることが大変な失礼であるということくらいだ。そうした接触は性的なもので、女性側に屈辱をもたらすものらしい。
アリアの体つきはお世辞にも娘らしくはないので――結婚式のドレスは相当量の詰め物をして誤魔化していた――、嫌がらせをしてくる兄王子たちもそうしたことはしてこなかった。
それが、アリアのためを思ってではないことは確かだ。単に食指が動かなかったのか、母親や姉妹たちから軽蔑されることを恐れたためか、アリアへの嫌悪感ゆえか。
(そういえば陛下も、唇への口付けはなさらなかった……)
軽く顔に指が触れたくらいで、唇は重ならなかった。
これで結婚の誓いが交わされたのかどうか分からないが、交わされたと周囲は認識したはずだ。儀式は滞りなく終わった。
ぼんやりと、美しい室内を見回す。
寝台の傍に豪奢なランプが置かれ、暖かな明かりが辺りを照らしている。
薄い紗がかけられた天蓋つきの寝台は、そういえばこういうものを幼い頃に見たことがある気がする、と記憶を呼び覚ました。小さい頃はとてつもなく大きな遊び場だと思っていた気がするが、成長してから見るとそこまで大きなものではなかったと妙な感慨を抱く。
壁のタペストリーはおそらく海の様子を織ったものなのだろう、河を下るために使ったものとは随分と様子の違う船が、水をかき分ける様子が躍動的だ。河の水の色とは違う、海の水の濃い青が美しい。
(船旅……もっとしていたかったな……)
トーリアの者に送り届けられたので、当然のごとくアリアに便宜が図られることはなかった。出された食事も保存食ばかり、それであっても離宮での食事とも言えない食事よりはだいぶ上等なものだったが、停泊時に使用人たちが自分たちで釣った川魚を食べたりしていたのは羨ましかった。
結婚式の後には晩餐会があったらしいが、出席は歓迎されない雰囲気だったのでこちらから辞退した。
式の最中にも感じていたが、トーリアから来た花嫁に対する不信や嫌悪が強い。花婿からばかりではなく、会場の誰からも、アリアは歓迎されていなかった。
(みんな……知っているのかもしれないわ……)
アリアが名ばかり、形ばかりの花嫁になることを。
いずれ殺される、人質で生贄の娘だということを。
茶番だ、と思う。トーリアもノナーキーも、為政者たちはそのことを承知していながら、こんなふうにしているのだから。
最後の晩餐かもしれないと思いつつ果物だけいただき、湯を使い、案内された部屋に下がって侍女に髪などを整えられ……王の訪いを告げられた。
その侍女も退出し、薄暗い室内に自分ひとり。窓の外には夜の帳が降りていて、様子がさだかに分からない。海が見えるのか、それとも木々が生えているのか、建物が見えるだけなのか……
……そっと、窓に手をかけたときだった。
「――逃亡か?」
その声に、ゆっくりと振り返る。昼間見たきりの、夫となったノナーキー王エセルバートが腕を組んでしかめ面をしていた。なぜか小脇に分厚い本を抱えているが、儀式で使うものなのだろうか。
薄暗がりの中でも分かる。不機嫌そうだ。アリアはゆるゆると首を横に振った。
「いいえ。何か見えるかと思って……」
「面白いものはあるまい。目を楽しませるものが欲しいなら、絵や彫刻を運ばせてやろう。護衛をつけて、城の中にある美術品を楽しむのもよかろう。トーリアの姫君にはみすぼらしく映るかもしれんがな」
「いえ、そんな……」
アリアが最上級のものに囲まれていたのは幼い頃だけだ。離宮の目ぼしいものはとっくに持ち去られて目を楽しませるものもなく、ひたすら掃除に明け暮れていた日々が長い。だがもちろん、エセルバートはそのことを知らないだろう。アリアは表向き、病弱なため離宮で静養していた姫君ということになっている。離宮の中まで訪れるのは王族だけだから、それが真実ということでまかり通っている。
目を伏せるアリアに、エセルバートは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「私はそなたに情けをかける気などない。安心したか? 失望したか?」
「いえ……」
アリアはあいまいに首を振った。情けをかける気がない。つまり、容赦をする気がない……いつか殺す、ということなのだろう。安心したわけではないが、失望したわけでもない。まあ、そうだろうなと思っただけだ。
アリアの淡白な反応に、エセルバートは少し眉をひそめたようだった。なおも言った。
「そなたは自分の立場を理解しているようだ。だから分かるだろう。子ができたら哀れなことになると」
子供ともども殺される、ということだ。今すぐ懐妊したとして、おそらく産み月が来る前に状況がそうなる。子供は生まれることなく母親と一緒に殺される。
そのことは分かるのだが、どうやって子供を授かるのか、そこが分からない。推察するに、口付けが関係あるのだろうとは思うが、確かめられる雰囲気でもない。
情けをかける気がない、というのは、そのことも指しているらしいとは察した。
「つまり……初夜の儀式をなさらない、ということでしょうか」
「儀式……? ……まあ、そうだな」
「かしこまりました。陛下の、仰せのままに」
アリアは頭を垂れた。
エセルバートが戸惑う気配が伝わってくる。
だがアリアは、言われた通りにしているだけだ。夜の儀式は、夫に従っていればいいと。儀式自体をしないというのなら、アリアはそれに従うだけだ。
しばらくそうしていると、戸惑った声が降ってきた。
「……いつまでそうしているつもりだ」
「陛下のお許しがあるまで。仰ることに従うようにと言われておりますので」
「…………。……なら、休め。……私のことは気にするな」
「はい、かしこまりました」
アリアが顔を上げて長椅子に座ろうと向かうと、ちょうどそちらへ体を向けていたエセルバートがぎょっとした顔をする。どうやら椅子で本を読むつもりだったらしい。
「休め、と言ったのだが?」
「ええ。ですから休ませていただきます」
「……眠れないのか?」
アリアはきょとんとした。眠らないのか、ではなく、眠れないのか。そもそも、眠ってよかったのか。
「寝台は陛下がお使いになるのではないのですか?」
「どうしてそうなる! だとしても、女性に椅子を使わせておいて自分だけ寝台で眠りこけることなどできるわけがなかろう!」
どうしても何も、ここはノナーキーの王城で、その主君が部屋を訪れたのだから部屋を使う権利があるのはそちらだ。アリアはごく自然にそう考えたのだが、エセルバートは妙な顔をしている。
「ええと……私が寝台を使ってもよろしいのでしょうか?」
「使え。使えるものならな」
エセルバートは皮肉っぽく言ったが、このくらいの嫌味は嫌味とすら思わない。立派な寝台に寝転んでみたくて、じつはずっとうずうずしていたのだ。
ありがとうございます、と礼を述べて寝台に横たわり、前かけを引き寄せた次の瞬間、アリアは眠りに落ちた。やわらかで極上の肌触りの寝具を楽しむ間もなく、疲れが一気にやってきて意識を押し流した。
部屋にアリアのかすかな寝息が響く。
エセルバートは思わず呟いた。
「……なんなんだ、こいつは?」




