地球?
急げ──されど、走ってはならぬ。衝撃は最小限に抑えねば、悲劇は避けられぬゆえに。
導かれるまま進む廊下は、なぜこれほど長く、果てしないのか。まるで時空の歪みに呑まれたかのように、空気は揺らぎ、視界は滲む。
私は這うように、泳ぐように、執念と忍耐で辿り着いた。
あの聖域へ──トイレの扉へと。
「おや?」
またしても、異界へ通じているものとばかり思っていた。
だが、そこに在ったのは、見慣れた陶器の王座──白き便器が、まるで慈悲深き女神のごとく、私を迎え入れていた。
しかしながら、何かが違う。
便座の背に据えられた貯水タンクには、幾多の裂傷が走り、まるで過去に幾たびかの闘争を耐え抜いたかのような風格を漂わせていた。
周囲の壁もまた、清浄さを欠き、かつての面影を失っている。
掃除当番の怠慢では済まぬ乱雑さだ。とはいえ、眼前の神聖にして必要なる行為を後回しにする愚は犯せぬ。
私は慎みをもって腰を下ろし、厳粛なる儀式を開始する。
「こぉぉぉぉ、これはぁぁぁぁ! いつもより多く回しておりますぅぅぅ!」
嗚呼、何という開放感。まさしく今、私はギネスの新たなページを彩ったのだ。
馴れ親しんだこの地に身を委ねればこそ、腸も肛門も完全なる同調を果たし、己が内なる奔流を惜しげもなく世に解き放った。
この比類なき成果、可能であれば誰かに見せびらかしたいものだ──愚かな願望と知りながらも、そう思わずにはいられぬ。
では、終幕と参ろう。静かに紙を手に取り、身を清めんとした、その時である。
――コンコン
控えめながら、確かな音。扉の向こうから、誰かが我慢の限界に叩いている。
「すまない、あと少しで済む。もう少し待ってくれないか?」
――コンコン、コンコンコンコン!
繰り返される催促。その調子に、苛立ちが混ざり始める。
「おい、焦るな。気持ちは痛いほどわかるが、待ってくれ。隣は空いていないのか?」
――ゴンゴン、ゴンガンゴンガンゴンガンゴンガン!
肛門に意思を支配されているのか、激しさを増した衝撃が扉を歪ませ、蝶番を軋ませる。
「ったく、忙しない。終わったぞ、今出る!」
レバーを引けば、水流は荒れ狂う瀑布の如く回転し、泡とともに私の業を深き地下へと運び去った。
鍵を外し、私は扉を開いた──だが。
「ほら、早くしろ。漏らす――な、何!?」
「キシャー!!」
そこに現れたのは、狂気の産物。
まるでフランスパンを基とし、そこへ羽根と無数の脚、そして獰猛な牙を接ぎ木したかの如き、異形の虫が空を舞っていた。
「うお!?」
「キシャ、キシャ、キシャー!」
瞬時に距離を詰めたそれが、猛然と私の顔面に襲いかかる。
私は反射的に両手を突き出し、そのパン虫を押さえ込む。だが、奴の牙は何度も私の肉を噛み砕こうと迫り、空気は緊迫と悪臭に染まっていた。
このままでは──喰われる。ならば……こちらから喰らってやるわ!
私は口を大きく開き、その牙ごと、虫の頭部を噛み千切った。
途端に、口腔内へと広がるぬめりと苦み、そしてどこか甘い香り。
「この、愚か者め!」
叩きつけるように地へと投げ、残った命を踏み砕く。虫は痙攣し、やがてその蠢きを止めた。
「何なんだ、こいつは? くそ、口の中に虫の味が……ん、意外にうまいな!」
不思議なことに、口内に残る余韻は、ほのかにココアを思わせる。
見た目のグロテスクさに反し、味わいは芳醇。先ほど投げ捨てたことが、今さらながら惜しまれる。
私は名残惜しげに視線を虫の骸から外し、周囲を見渡す。
「う~む。荒れているが、私の学校のトイレに間違いない。どういうことだ?」
「おい、おまえ。ここで何をしている?」
突如、どこか懐かしい声が入口から響く。
目を向ければ、そこにいたのは、ライフルを背にした青年。まるで、戦火の只中から来たかのような風貌。
「いや、トイレをしていて、虫をご馳走に……おや?」
「あ! き、君は!?」
「もしかして、同じクラスのやつか? 一体、何が起こっている?」
「それは俺のセリフだよ。君は死んだはずなのに!?」
「私が死んだ? 詳しく聞かせてもらおうか」
クラスメイトたちとの会話を通して、この世界の輪郭が朧げながらも見えてきた。 要するに、ここもまた、私の知る現実とは異なる別世界――この世界は、私の住む地球とは次元を異にする、もう一つの地球のようだ。
この地では、地球全体が異星からの侵略に晒され、今や絶滅の瀬戸際にあるという。
そして、こちらの私は仲間を庇うために命を落としたのだと告げられた。
彼らの拠点である「コロニー」へと案内される。
その経路に広がる街の景観は、まるで灼熱の業火に呑まれたかのように荒れ果て、瓦礫と焦土の連なりは、もはや私の知る街とは似ても似つかぬ姿をしていた。
――コロニーへ
その場所は、元来は地下鉄の駅であったらしい。今は堅牢に改築され、人々の最後の砦として機能している。
安堵の空気がほんの僅かに胸を撫でた刹那、彼は私の世界について尋ねてきた。
「別次元の地球、か。そちらは安全なんだな?」
「ああ、特に何も起こっていない。私の身の回り以外はな」
「はは、大変だな……しかし、別世界とはいえ、存続している地球が存在するというのは嬉しいものだな」
「何を言う。君たちだって生きている」
「辛うじてな。だが、もはや、全滅も時間の問題だ」
「そうなのか。どうして、こんなことに?」
「最初は誤解だった。地球が打ち上げていた新型衛星が放つパルスが、地球の傍を通りかかった宇宙人の船に損傷を与えたんだ。それを攻撃と勘違いされた」
「それを伝えることは?」
「やろうとした。しかし、言語が違い過ぎてどうしようもなかった。だから、別の形で様々な伝達手段を取ったが、すべて裏目に出てしまった。しばらくして、宇宙人は不気味な虫を地球に放ってきた」
「トイレにいた奴か」
「ああ、虫は次から次へと人々に襲い掛かった。俺たちは虫を駆除をするため、皆で立ち上がった。すると、虫を殺されたことに激高した宇宙人が、地球に総攻撃を仕掛けてきた……それに抵抗したが、地球の科学力では全く歯が立たなかった」
「そうか……」
「ふぅ、辛気臭いこと言ってごめんな。君は明日には自分の地球へ帰られるんだろう?」
「ああ。あのトイレのところまで行く必要があるけどな」
「わかった。明日は俺がそこまで護衛しよう。今日は、ここで休むといい」
そう言って彼は、コロニーの奥へと私を誘い、小さな子どもたちが集う部屋へと案内してくれた。
「騒がしいが、ここが一番君の知る地球らしい場所なんだ。我慢してもらえるか?」
「我慢なんて。君の配慮には頭が下がる」
「はは、頭を下げるのは早いと思うよ」
「何? おおっ?」
気がつけば、部屋にいた子どもたちが私の周囲を囲み、興味深げな瞳をこちらに向けている。
一人の小さな女の子が、数枚の画用紙を抱え、私の袖を小さく引いた。
「ねぇねぇ、お話を読んでよ!」
彼女が差し出したのは、手製の紙芝居だった。
私はそれを受け取り、一枚一枚の絵に目を通す。全てが手描きであり、その稚拙さには、むしろ作者の愛情が滲んでいた。
「誰かが作ったのか?」
と尋ねると、彼はどこか寂しげな表情で答えた。
「ああ、町は瓦礫の山。何も残っていない。だから、この子の……この子のお姉さんが妹のために作ってあげたんだ」
「なるほど……。紙芝居か。読んだことはないが、この子のために読んでみよう」
私が膝を折り、紙芝居を広げると、女の子は身体を揺らしながら、早く早くとせがんできた。
私は、彼女のために紙芝居を読み始めた。
その物語は、小さな冒険家の少年が旅に出て、宝を手に入れるという、子どもたちの夢をくすぐる構成となっていた。
明快でありながらも、冒険の躍動が伝わる、簡素ながらも心に残る作品であった。 読み終えると、他の子どもたちが口々に一緒に遊んでと懇願してきた。
その願いに応え、私は子どもたちと共に、心ゆくまで遊んだ。
遊びに遊び、疲労とともに、笑顔が部屋を満たしていく。
最後に、例の女の子がもう一度紙芝居を読んでと頼んできたので、彼女が静かに眠りに落ちるまで、私は物語を読み聞かせ続けた。
やがて陽は昇り、朝が訪れた。
私は帰還の時を迎え、コロニーの出口で彼を待つ。
子どもたちはまだ夢の中にいた。
別れの挨拶を交わせぬのは寂しさもあったが、きっとこの方が良いのだろう。
しばらくの時が過ぎ、彼が姿を現した。
「待たせたな」
「いや、そんなことは。では、行こうか」
「待て、その前にこれを」
「これは、あの女の子の紙芝居?」
「お兄ちゃんにプレゼントしたいとさ」
「しかし、これはあの子のお姉さんの……」
「貰ってあげてくれ。ここにあっても、いずれなくなる物だ」
「そうか、わかった。大切にしよう」
私は紙芝居を胸に抱き、トイレへと向かった。
道中に何の障害もなく、無事にトイレへと到着する。
彼に別れを告げ、自らの地球へと帰還した。
トイレの扉を開き、周囲を見渡す。
そこには、私の知るトイレがあった。かすかに匂いはするものの、あの荒廃の影はどこにもない。
両手には、女の子から託された紙芝居がある――が、ふと気づく。
「あれ、最後の一枚が足りない? しかし、もう戻れないし諦めるしかないか」
私はトイレの方を振り返り、その扉と静かに対峙する。
「お前の意図が少し見えてきた気がする。あと、どのくらい続ける気だ?」
しかし、トイレは何一つ応えない。
ただ黙して、次なる排泄者を、静かに待っているのだった。