夢見る人々
例によって例の如く、私は腹部を押さえつつ、急ぎ学校のトイレへと身を投じた。
だが、扉の向こうに広がっていたのは、見慣れた陶器の聖域ではなく、金属の壁と床が支配する薄暗くして無機なる通路。
動揺と困惑を抱きながらも、なおもトイレを求めて通路を進むうち、一人の男の姿が目に留まった。
齢三十ばかりか、顔には疲労の影が濃く宿り、無言のままそこに佇んでいる。
「おい、そこのあんた、悪いがトイレを貸してくれ!」
「え? な、なんで人が?」
「いいから、と、とにかく、トイレを。地獄を見たいのか!?」
「あ、ああ、わかった。こっちだ!」
彼の導きに従い、私はようやく憧れの地へと辿り着いた。
苦悶に歪む顔を蒼白に染め、私は己が内より迫りくる脅威の凄まじさを、身振り手振りを交えて必死に伝え、この場に留まるは危険との警告を彼に与える。
彼は喉を鳴らし、ひとしずくの唾を嚥下すると、躊躇うことなく駆け足でその場を離れ、避難を果たした。
では、遠慮なく、ぶちかまさん。
「はぁああああ~、来い! ぶろぁぁぁぁぁ、光が、あれよあれ!! ほぅほぅ、ほぅ……」
フッ、新たなる世界が、この身より産まれ落ちんとする瞬間だった。
紙を手に取り、そっと、慎ましく、まるで赤子をあやすかのごとき優しさにて穢れを一掃する。
私は己が成し遂げし浄化の儀式に満足を覚え、トイレより通路へと戻った。
通路に出でて、首を左右に振り、先の男の姿を探す。
彼は通路の角より、警戒と興味とをない交ぜにした眼差しで、こちらの様子を窺っていた。
「ありがとう。もう、危機は去ったぞ。何も恐れることはない」
「いや、危機がないのはわかっているが、あなたは何者だ?」
「私は、こことは異なる世界から訪れた者だ。明日には異界へ通じる扉が開き、帰ることになるから気にしないでくれ」
「異界? ふむ……」
男はその右手に嵌められし銀の腕輪に触れ、空中へと半透明の光幕を展開された。
目に映るその光景から察するに、ここは地球とは比ぶべくもない、遥かなる技術的進歩を遂げた世界であるようだ。
「空間に揺らぎを計測。信じられないが、たしかにあなたは別次元の存在のようだ」
「理解が早くて助かる。言っとくが、敵意など全くないぞ」
「ああ、わかっている。敵意を持った存在が、いきなりトイレを貸してくれとは言わないだろうからな。ははは」
初めこそ警戒心を露わにしていた彼であったが、今やその表情は打ち解け、穏やかさを帯びている。
「話が通じる相手でよかった。さっきも話したが、明日には立ち去るから安心してくれ。不安なら、明日まで拘束してくれてもいい」
「いや、そんなことはしない。よければ、明日まで私の話し相手になってくれないかな?」
「ん? 別に構わないが、他の人たちが私のことを警戒するのでは?」
「他の人など、ここにはいない。いや、いるがいないんだ」
「どういうことだ?」
「……こっちへ来てくれ」
男に導かれ、さらに奥へと進む。そこには、機械仕掛けの卵を思わせる奇妙な寝台の群れが整然と並んでいた。
「ここは?」
「皆が眠っている場所だ。彼らは夢の世界で生きている」
「夢の世界……現実から離れ、仮想現実の世界を楽しんでいるということか?」
「ああ、その通りだ。だが、事故が起きてしまって、彼らは間もなく死ぬ」
「穏やかではないな。何があった?」
「機械の故障で、ポッドの生命維持装置に異常が出ている。だけど、私は技術者ではないので直せない」
「あんた以外、他に起きている人はいないのか?」
「ああ」
「ならば、今すぐ起こしてやればいい」
「それもできない。装置を止めるためには、パスワードが必要。だが私は、パスワードを知らないし、セキュリティを破る術も持っていない。だからといって、無理矢理ポッドを開ければ……」
「そうか……」
「唯一、ポッドが開くときは、中の人間の生命活動が停止した時だけ。私には弔うことしかできないんだ」
「うむ……なんと、言えばいいのか」
「はは、御客人に辛気臭い話をしてしまったな。何か明るい話をしよう。そうだ、あなたの世界の話を聞かせてくれないか」
「ああ、喜んで」
私はなるべく明るく、軽妙なる話題を選び取り、夜を徹して彼と語らい続けた。
かくして、静寂なる夜は更け、再びトイレの扉が目の前に現る時が訪れた。
「名残惜しいが、私は帰らなければならない」
「いやいや、思わぬ出会いに感謝をしている。私たちの出会いの記念に、これを受け取ってくれないか」
彼が差し出したるは、耳元に回転機構の設けられた、奇異なる形状のヘルメット。
「これは?」
「みんなが眠っているポッドのヘルメット版だ。ポッドと違い、安全で故障もなく、良き夢が見れる。使用する気がなくても、君の世界よりも進んだ技術が使われているから、未知の技術を学ぶ機会にもなるはずだ」
「そうか、ありがたくいただこう」
先ほど目にしたポッドの有様を思えば、とても気軽に使用する気にはなれない。
だが、彼の言葉の通り、それが未知なる叡智の結晶であることは否定し難い。
地球の科学に一石を投じる可能性も、決して小さからず。
ヘルメットを受け取り、操作法を教授され、最後に彼は一つの重大な禁忌を教えてくれた。
「耳の部分に摘みがあるだろ。これを無理やり回すと、限界を超えて回せてしまう。その状態で夢を見ると、しばらくの間、現実と夢の境が無くなるから気をつけろ」
私は静かに頷き、扉をくぐりて、元の世界――トイレへと戻った。
見慣れし、愛しき便器の前に立ち、私は改めて手にしたヘルメットを見つめる。
「これ、本当に安全なのか?」
この装置を世に広めれば、地球の科学に資すること叶うやも。
しかしながら、予期せぬ災厄を招き入れる危うさも、決して看過できるものではない。
私は静かに決断を下し、件のヘルメットを物置小屋の隅へと放り込むことにした。