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密林

 くおっ――。

 それは、いまだ経験したことのない、腹の奥底を突き上げる激痛であった。

 私の内に渦巻く未曾有の圧力は、気象庁も観測不能なレベルのフン速を記録していた。

 このままでは、緑の学び舎に走る無垢なる廊下が、私の手によって別の色彩に塗り替えられてしまうだろう。


 あられもなく壁に指先を掛け、呻きつつ己の身を進める。

 内なる混沌に抗いながら、私がようやくたどり着いたのは、かつて数々の危機を救ってくれた聖域――校舎のトイレであった。



 安堵の吐息とともに扉を開いたその瞬間、私の視界に広がったのは、見知った白亜の便器などではなかった。

 そこに在ったのは、鬱蒼と生い茂る密林――そう、まごうことなきジャングルである。


「ジャングル? よかった、これなら気兼ねなくそこらで」


 すでに羞恥心などという贅肉は、過去の闇に葬り去った。

 私はしかるべき茂みを選び、そこへ身を屈め、内なる暗黒を、静かに――だが確実に――地へと還す。


「きたきたきたきた~!! Hey! カモン、カモン、かっ!? 誰だ!?」



 叫びは天に届くが、同時に私の存在もまた他者に晒される。

 ふと目を上げれば、ヤシの木のかげより一人の若者がこちらを見つめていた。

 その肌は陽に焼け、上半身は裸、下半身には蓑を纏ったのみという、原初の風を感じさせる出で立ち。


「くっ、そんなにまじまじと見ないでくれないか。この通り、今の私は自身の意志ではどうにもぉぉぉぉぉぉ、た、たまらん!」


 我が肉体より産み出される闇は止まることを知らず、ただ地を侵し続ける。

 だがその男は、なぜか感情に何ら色を付けることなく顔を逸らし、言葉もなくその場を去っていった。


 ……何故だ?

 これほどの情景を目の当たりにして、無反応であるとは。

 いや、そもそも反応されても困るのだが、しかしそれにしても、である。



 闇はすべて地に堕ち、世界は再び静寂に包まれる。

 私は白き天使の遺産を手にし、己が痕跡を丁寧に拭い去った。


 フッ、これでこの世が冥府の如き暗黒に沈むことはなかった。


 傍らに茂る葉を手折り、それにて闇の名残をそっと覆い隠す。

 だが、歩み去ってから我に返る。


――あの葉、むしろ罠ではないか? それはまさしく、自然界に設けられた哲学的地雷。

 されど、露わに放置するは無礼の極み。

 この矛盾、すなわち人倫と配慮の相克こそ、便にまつわる永劫回帰の思索なのだ。


 私はその思惟(しゆい)の円環に己が糞を浮かべ、思便哲学(しべんてつがく)の旅路を踏み出す。

 先ほどの腰蓑の男の後を追って——。



 やがて男の姿を見つける。

 彼は地に伏し、まるで死体のように横たわっていた。

 もしや命を落としたのではと駆け寄るも、彼は安らかな寝息をたてていた。

 なんと無警戒な生き様か。羨ましきほどの精神の解脱というもの。


 その時、密林の奥より人の声が幾つか聞こえてくる。

 声の方向を辿り、私はさらに足を進める。

 開けた土地に出たとき、目にしたのは崩れかけた巨大建築物——まるで記憶の彼方から引き上げられた、朽ちたマンションのような建物だった。



 その周囲には、腰蓑のみを纏った男女が何人も転がっている。

 食事をとる者、ただ寝転ぶ者。皆、まるで魂を抜かれたかのような表情を見せている。


「なんだ、こいつらは? まるで生気を感じない」

「おや、誰かな? お前さんは?」


 背後より、枯れたが深みのある声が響く。

 振り返ると、年老いた男が一本の杖を手にし、私を見つめていた。

 私は自己紹介をし、敵意なき旅人である旨を伝える。


「私は、異界から訪れた者だ。敵意はない。明日には立ち去るから気にしないでくれ」

「異界から……ほぉ~」


 彼はその濁った瞳を剥き、深く私を覗き込んだ。


「お若いの、こっちへ来なされ」

「え? はい……」


 その導きに従い、私は廃れたマンションの一室へと入った。

 壁には、まるで美術品のように並べられた木の杖の数々。


「この世界は不思議だな。建物はあるのに、文明の匂いがしない」

「ふぉふぉふぉ、わしらもかつては星々を渡るだけの力を持っていたのじゃがな――そのすべてを失った……」

「何を失った?」

「思考力をじゃ。わしらはもはや、思考することに疲れたのじゃ。何も考えず、緩慢な死を迎えるだけじゃ」



 ああ、なるほど。先の男が、私の壮絶なる闇の産出を目撃しても驚愕せぬはずだ。

 彼らは思考の器を空にした民——何も感じることなく、ただ朽ちゆく存在というわけか。


「しかし、ご老公。あなたは他の人たちと少し違う気がするが?」

「ふぉふぉ、あなたの存在に半世紀ぶりに好奇心が疼きました。じゃが、すぐに冷めてしまうでしょう」

「こういっては何だが、寂しい限りだな」

「なればこそ、寂しい思いをさせぬよう、老いさらばえたワシのお相手をお願いしたい」

「わかった、お相手しましょう」


 私は語った。異界のこと、トイレの異変、思便哲学(しべんてつがく)に至る旅の記録……。

 だが、ご老公のまなざしは次第に(かげ)り、やがて深い眠りに落ちた。



 彼の部屋で一夜を過ごし、朝が来た。

 私は出口に向かう前に、静かに礼を述べた。


「部屋を貸していただき、ありがとうございます」

「…………」


 だが彼は、どこか遥かな彼方を見つめるような姿を見せるばかりで、何も語らない。

 私は頭を下げ、出ようとした——その時、目に入ったのが、壁に飾られた木の杖たち。


「そういえば、何故こんなに木の杖を飾っているんだ?」


 自らの問いに、すぐさま首を振った。彼には、もう届かぬであろうと——しかし。


「これは、知恵の象徴じゃ」

「え?」

「木の杖……木の棒は人が生み出した知恵の証。強く擦りつければ、火を生む。火を燈せば、たいまつとなる。両手でしっかりと握りしめれば、身を守る武器となる。私のような老人の最高の相棒となる」



 そう言って、ご老公は杖を力強く突いた。


「なるほど。木の棒とはアイデア次第で無限の道具となるわけか。面白い話を聞かせていただき、ありがとうございます」

「ふぉふぉ、ワシも久方ぶりに愉快な話ができた。よければ、これを持って行け」


 彼は壁から一本の杖を外し、私に手渡した。


「ありがたく頂戴します。人の知恵、たしかに受け取りました」


 私は部屋を出た。

 振り返れば、ご老公は再び虚空を見つめ、まるで私の存在を忘れてしまったかのようだった。


 再び密林を抜け、私は扉を見つける。

 それを開けたとき、世界は元通りの場所に戻っていた。


 私は、手にした杖を見つめてふと微笑んだ。


「今までいろんなものを持って帰ってきたが、一番嬉しい戴きものだな」

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