宇宙船
腹を押さえつつ、私は学校のトイレの扉を押し開いた。
だが、そこに在るべき便器は影も形もなく、かわりに銀色に鈍く光る通路が、私の前に静かに延びていた。
またか、と思った。
もはや驚くこともなくなった。異界へと至るこのトイレの謎に慣れてしまったのだろう。
私は冷静に、その異様な空間を見渡した。
壁面には、いずこの言語とも知れぬ記号と数字が、煌々と光る電子パネルに刻まれていた。
通路は繰り返し補修された痕跡を残し、金属板の継ぎ接ぎがその身の痛々しさを物語る。
そばの窓に目をやれば、そこには星々の瞬きと深遠な虚無――すなわち、宇宙が横たわっていた。
なるほど。どうやら今回は宇宙船らしい。
何ゆえに、かくも突飛なる場所に繋がったのかという疑問は、今は脇に置かねばなるまい。
私にとって今、何よりも優先されるのは——トイレの発見!
鋼鉄の機構で構成された扉をいくつも開いてゆく。しかし、いずこを探ろうとも、それらしき設備の姿はない。
「くほぅ!」
内臓の奥深くより突き上げる波。それも既に、幾度となく寄せては返している。
そして今まさに、かつてないほどの高潮が目前にまで迫っていた。
悠長に構えていれば、尊厳が危うい。
希望という名の微光を胸に、次なる扉をくぐると――そこには、天井より幾本もの柔らかな管が垂れ下がっていた。
その管の先端は、まるで何かを優しく包み込もうとするように扇状を成しており、中心にはぽっかりと円い穴が開いている。
その瞬間、私の脳裏に一条の閃光が走る。
そう、宇宙では吸引によって排泄が処理されると、どこかで耳にした記憶がある。
ならば、ここに尻を差し出して、事を成すのみ——私は即座に行動に移る。
が、その刹那、甲高い声が辺りに響いた。
「あ、あなた、何をしているの!?」
「なんだ!?」
排泄という聖なる営みに集中していた私は、思わぬ中断により、怒気を宿した視線を声の主に向けた。
そこに立っていたのは、異形にして気高き風貌を備えた、ひとりの異星の女性であった。
赤茶の髪を揺らし、桃色の肌には銀のラメが煌くように浮かび上がっている。
その姿と身体に密着した青いスーツが、彼女の出自が地球のものではないことを雄弁に物語っていた。
だが、彼女が宇宙人であろうと、今の私には関係のないこと。
私は至って真面目に、事情を述べるまでだ。
「何をしているって、うんこをしようとしているだけだが?」
「酸素吸入器に何をしてるのよ! そんなものしないで! それよりもあなた何者!?」
「私が何者かよりも先に、トイレを教えてくれ……でないと、うごぉ!」
「わ、わかったわ。とにかく耐えて。案内するから」
彼女の導きにより、私はようやく至福の地へと辿り着いた。
もはや噴出寸前の衝動を抱えながら、そっと中へと身を滑り込ませる。
「ほほぉ、和式か」
最先端の技術が集うであろう宇宙船において、あまりにも懐かしきこの造形。
それはまるで、時代を越えた和の心。妙な感動すら覚える。
私は素早くしゃがみ込み、解放への体勢を整えた。
重力に従い、自然にして肛門が開かれる。
さぁ、宇宙でただ一つのエンジンを噴かそうではないか。
「3・2・1、エンゲージ! くぉぉぉぉぉぉっぉおぉぉ。最大船速! ふぉぉぉぉぉ!」
フッ、光速を超えてしまったぜ。
相対性理論の権威、アインシュタインを遥か彼方に置き去りにし、私はトイレから堂々たる態で出た。
が、その先では女性が待ち構えていた。
今度は手に銃らしき武器を構えた姿で……。
「ほぉ、いきなり武器を向けるとは物騒な奴め。なんのつもりだ?」
「それは私のセリフ! いきなり船内に侵入し、貴重な酸素を汚染しようとするなんて!」
「あれはただの誤解だ。私は……」
私の言葉に、彼女は真剣な表情で耳を傾ける。
そしてすぐさま、壁面の電子パネルを操作し始めた。
「船内に空間のひずみの痕跡。空間の周波数はあなたの周囲にあるものと一致。嘘ではないようね」
「理解してもらえたようだな。騒がせたのはすまない。だが、安心してくれ、明日には扉が現れる」
「明日……一日なら何とか……」
「何か問題でも?」
「私たちの船は物資が少ない。あなたが消費する酸素量でも問題なの」
「補給はできないのか?」
「簡単には無理よ。私たちには羽を休める場所なんてないの。故郷が消えてなくなったから……」
そのひと言の背後に滲む、言い尽くせぬほどの悲哀に、私は思わず姿勢を正した。
彼らはかつて故郷と呼んだ星を失い、今はただ、移住に適した新天地を目指し、幾隻もの船を連ねた小さな艦隊として、果てなき宇宙の海を彷徨っているのだという。
されど、船の歩みはあまりに緩慢であり、到達できるのか誰にもわからぬというのだ。
「そうか、私がいるだけで迷惑なのだな。なるべく、酸素を消費しないように息を止めておこう。むぐぐ」
「い、いえ、無理をしてはもっと大変なことになるから、普通にしてて」
「ぷは~、そうか、わかった」
「あなたの部屋を用意するわ。悪いけど、一応治安の面であまり船内をうろついてほしくないから、明日までそこにいてもらえる」
「もちろんだ」
「それと、あとで水と食事を用意して持ってくるからね」
「……随分と親切にしてくれるのだな。迷惑者だというのに」
「あなたが害意を示す相手ではない以上、当然よ。疑いや敵意は何も生まない」
「私が言うのもなんだが、故郷を失い、物資も少ない中で、よくそこまでの慈悲を示せるな」
「これのおかげよ」
彼女は懐から一冊の本を取り出した。
「この経典が私たちの支えになっているの。経典には絆と愛と信頼の大切さが説かれている。狭い船内でいがみ合うのは、全滅を意味するからね」
「ほぉ、さぞかし立派な教えが載っているのだろうな」
「見てみる?」
彼女から手渡された経典を、私は静かに開く。
そこに並ぶ未知の文字列――だが、何故だろうか? 意味が、頭に直接飛び込んでくる。
「不思議だ。文字は読めないのに意味がわかる」
「ページの一枚一枚に翻訳フィルターが貼ってあるから、文字がわからなくても読めるの」
「すごい技術だ。そして、経典の内容も素晴らしい」
「そう? よかったら、この経典を差し上げるわ」
「いいのか?」
「ええ。あなたの星に争いがあり、困っているのなら、経典が役立てることを祈っている」
「私は国家間の争いとやらには口を出せる立場ではないが、日常の諍いでも役に立ちそうだ。ありがたくいただこう」
経典を脇に抱え、私は案内された部屋へと足を運んだ。
――翌朝
トイレの扉があった場所へ向かうと、そこには確かに、いつもの扉が存在していた。
女性に手を振り、私はその扉を開け、かつての日常へと戻ってきた。
手には、経典がある。夢ではないという確かな証。