男子禁制
もはや、決壊は避けられぬ宿命であった。
私の忍耐は、とうの昔に限界点を突破し、理性の防壁すら風前の灯となっていた。
もしこの扉の先に、救済の便器が存在しないとすれば——地獄の釜より煮え滾る業火が、現世を焼き尽くすに違いない。
私は、日々心の拠り所としている、学び舎のトイレの扉に手をかけた。
南無三……今度こそ、どこにも繋がっていないでくれ
「こ、これはっ!?」
私の切なる願いが、奇跡として結実したのか。
視界の彼方に現れたのは、燦然と輝く白磁の便器であった。
それはまさに、慈しみを具現化したかのごとき存在。排泄を司る守護神のようでもあり、神域のごとき静謐を湛えていた。
しかし、見慣れた我が便器とは明らかに異なり、その曲面には品位ある光沢が浮かび、神聖さすら感じさせる佇まいをしているが、はて?
事の詳細を考察するは後の話。いま為すべきは、差し迫った腹中の災厄を解き放つことであろう。
私はズボンと下着を滑るように脱ぎ、便座へと身を沈めた。
そして——解放の時が訪れる。
「お、う、おう。おおおおお~!! く、おおおおお、お、お?」
最初の奔流は、まるで堰を切った濁流のごとく、私の身を貫いた。
だがその後、残された者たちは容易に身を委ねず、出口の門を叩いては引き返すという、頑なな反抗を続けていた。
これは——容易には終わらぬ、長き戦いの予感だ。
「ん?」
ふと、視線の先に小さな台が設けられているのに気づく。
その上には、一冊の雑誌が鎮座していた。
なんと、都合の良いことか。私はその冊子を手に取り、戦の合間の慰めとして、読み物に興じることとした。
しかし、ページをめくった瞬間、私の眼前に現れたのは、見知らぬ記号群。
その文様は、地球上のいかなる言語体系にも当てはまらぬ、異形の言葉であった。
やはり私は、再び異世界の地へと足を踏み入れてしまったのか。
「文字は読めないが、料理本かな?」
彩り豊かな挿絵とともに、誌面には食欲をそそる料理の数々が並んでいた。
言葉は解さずとも、視覚によって伝わる悦びがある。
私は雑誌の頁をめくりながら、時折腹に力を込め、便器の水面に小気味よき音色を奏でる。
その折、不意に聞こえてきた声——数にして三、四。
だが、ここはトイレという、俗世を離れた聖域。
彼らが誰であろうとも、気にかける必要はなかろう——そう思っていたのだが、甘かった!?
その声は、確かに女性のもの。
すなわち、ここは……。
女子トイレ!!
いかん、これは由々しき事態。
退出を図るべきか? だがそれも叶わぬ。
我が下半身はいまだ戦場にあり、膠着状態を打開し得ぬ。
ならば選択肢は一つ——籠城を行うほかあるまい。
私はそっと鍵がかかっていることを確認し、気配を殺した。
しばらくして、トイレ内には若き女性たちの会話が木霊する。
幸いにも、首にかけた翻訳機能付きのネックレスが、その音声を拾い、意味ある言葉として私の脳裏に届けてくれた。
彼女たちの語らう内容は、他愛もない雑談に過ぎない。
今のところ、私の存在に気づいた様子はない。
あとは、ただ時が過ぎ去るのを待つばかり——
――10分後。いまだ、去らず。
――20分後。依然、居座る。
――30分後。変わらぬ気配。
限界だ! どれだけ談笑を続けるのだ、あの娘たちは!
我慢もついに尽き果て、私は思わず傍らの台を軽く叩いてしまった。
それが、事態を悪化させる決定打となった。
「ねぇ、トイレの子。ずっといるけど、大丈夫かな?」
「そういえば、長いよね」
……長きは貴様らの話であろう。
だが、口に出すわけにはいかぬ。それをすれば、私が男であると知られてしまう。
「ちょっと、声かけて見ようか? 中で倒れてたりして?」
やめろ。やめてくれ。近づくな。
——コンコン
「大丈夫? 生きてる?」
無視は疑念を生む。ならば……女声で切り抜けるしかない!
「ええ、大丈夫でありんすぇ。わっちは平気ありんすから、放っておいてくんなまし」
「え、あ、そ、そう。大丈夫ならいいんだけど……」
ふふ、どうだ。我が女子力。
見よ、この艶やかにして古風なる言の葉。
さながら花魁の残響のごとく、彼女らの耳朶を撫でたに違いない。
「ねぇねぇ、やっぱりなんか変じゃない?」
な、何っ!? まさか見破られたか……!?
「ねぇ、あなた。本当に大丈夫?」
再び響いたノックは、明らかに警戒と猜疑を帯びて――――な、なに!?
腹に潜んでいた暴徒どもが突如として蜂起しおった!!
彼らは滑り台を滑る童のごとく、腸内を躍動し、肛門の門扉を荒々しく叩いた。
このままでは、彼女たちの鼓膜に、忌まわしき響きが直撃してしまう!
「は、離れてくんなまし……あ、危ないでありんす」
「え、何が危ないの?」
「だ、だから……あ、無理だ」
その瞬間、奏でられたのは——天国と地獄の狂想曲。
かくも相応しい舞台が他にあろうか。
芳しき音の洗礼を受け、彼女たちは恐れをなして逃げ去った。
……ふっ、匂いが目に染み、視界が霞むぜ。
すべてを出し尽くし、私は深き達成感とともに、抗いがたい眠気に身を委ねた。そっと、瞼を閉じる。
――どれほどの時が過ぎたであろうか。耳元に、ざわめきが満ちていく。
微睡の名残を手繰り寄せながら、私はゆるりとまぶたを擦ろうとした。だが、その刹那、現実が冷ややかに私を引き戻す。
……なんという不覚。私は今この時まで、下半身をさらけ出したまま、眠りの淵に身を委ねていたようだ。
扉の外からは、数名の女性たちの声が飛び交う。
その中の一人、鋭き声色の者が、扉の破壊を提案した。
「鍵が壊れているのかもしれないわね。扉を破壊しましょう」
あわわわわっ、笑いごとでは済まされぬ!
私はとっさに手元の雑誌を腹とズボンの間にねじ込み、ノブを握って籠城の構えを取った。
しかし、次に耳に届いた提案は、さらなる衝撃を伴うものであった。
「ねぇ、上から覗いてみたら?」
な、なにぃっ!? まさか、天才がここに……!
何としても、この窮地を糊塗せねば!!
「待ってくんなまし! 扉は壊れていんせん。少うし、長めなだけ」
「長めって、もう丸一日籠っているじゃない。あなた、どういうつもり?」
……丸一日? 私は愕然とした。
眠ったのは刹那のつもりであった――――時の流れは残酷にして無慈悲。
「鍵を開けなさい。早くっ!」
「や、やめろぉぉっ!」
ノブが激しく揺れ、今にも崩れ落ちそうな気配を放っていた。
もはやこれまでか。鍵が壊れれば、私の尊厳もろとも木っ端微塵となろう。
だがそのとき、突如として扉に変化が生じた。
あれは……見慣れた扉!
私は咄嗟にノブを回し、開放する。
助かった!
私の動作とほぼ同時に、あちらの扉も開かれたらしく、背後から女性たちの声が聞こえた。
「いない。何だったの? う、残り香が……」
「ねぇ、さっきの声。データベースに残る男の声に似てなかった?」
「何を馬鹿なことを。もう、この世界に男は……」
その言葉を耳にした瞬間、私は背後を振り返り、いつもの便器を確かめた。
ここは間違いなく、私の世界。
だが、あの異界の声は、今なお耳の奥底に残響していた。
「彼女たちの最後の言葉……男がいない? おや?」
私は、腹とズボンの間に挟まったままの、あの料理雑誌の存在に気づく。
これは異世界からの無断借用——いや、正確には、事故の産物と言うべきか。
とはいえ、返しに戻る術もなければ、勇気もない。
それならば、せめてこの未知なる料理に挑戦してみよう。
誌面に踊る材料は見知らぬものばかりであったが、類似した品で代用すれば、何とかなるだろう。
私は手探りで調理を進め、やがて七色の光を放つ奇妙な料理を完成させた。
一口、口に運ぶ。……不味くはない。されど、美味とも言い難い。
まさに、言語化不能の奇妙な風味であった。