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美犬さん

「うお~、漏れる~。おぉぅ……」


 この身を(さいな)む突発的な腹痛に、私は己が歯列を密かに噛みしめる。

 無念にも、またしても授業の最中に席を立つこととなるとは。己が胃腸の儚さを呪わずにはいられぬ。


 教室を後にし、出口を固く引き締めながら、忍び足で廊下を行く。焦燥に駆られつつも、なるべく刺激を与えぬよう、慎重に歩を進め、ついに男子用便所の扉へとたどり着く。


 安堵とともに扉を押し開く――だが。

 そこに待ち受けていたのは、見慣れた白磁の便器ではなかった。

 再び、広大なる草原。


 しかし、かつて目にした絵画のような静謐な世界とは異なり、そこには確かに生命の躍動が感じられた。

 そよぐ草葉の音、遠くに響く鳥の囀り、頬を撫でる風の温もり――すべてが、今ここに生きる世界の証。



「まぁ、そんなことはどうでもいいけどなっ!!」


 私には為すべきことがある。


 決意を固め、草原へと転がり込み、慎重に周囲を見渡す。

 人影は……ない。

 安堵しかけた刹那、視界の端に、思わぬ存在が映り込んだ。


「げぇ、誰かいるっ!?」


 草原を横切る川のほとり、白銀の毛並みを持つ者が、静かに洗濯をしていた。


 犬の如き姿を持ちながら、人の形をした女性。ふわりと揺れるエプロンの裾が、彼女の穏やかなる佇まいを際立たせている。


 美しい。


 その毛並みは純白に輝き、優雅なる仕草には気品が漂う。

 だが、今はその美貌に見惚れている場合ではない。

 この場で用を足すなど、あまりに無作法。彼女に無粋な香りを届けぬため、私は策を講じた。


 そっと草を摘み取り、風に乗せて投げる。

 ふわりと舞い上がる葉片の流れを読み、風下へと慎重に身を移す。



 かくして、いざ――


「う、う、うぉ、おおおおおぉ、おおおおおおおおおおお~!! ふぅ~」


 ふっ、勢いを前に危うく大地は裂け、地勢すら書き換わるところであった。



 手をポケットへと差し入れ、探る。そう、今日の私は一味違う。

 三つのポケットティッシュを携えし、完全武装の身なのだ。


 ここまでの備えを(ほどこ)し挑んだ事など、過去にあっただろうか?

 優雅に身を清め、安堵の吐息を漏らす私であったが、その静寂を破るものがあった。

 振り向けば、幼き犬の姿をした子どもが、無邪気に指を差し笑っていた。


「こら、見るな! 見るな! あっち行け!」


 慌てて手を振り追い払うも、子ども犬はなおも楽しげにその場に留まる。それどころか、小石を拾い、無情にも私へと投じた。


「や、やめろ、卑怯だぞ!」


 素肌を打つ冷たき衝撃。慌てて衣服を整えようとするも、焦燥が指の動きを阻み、思うように事が進まない。

 このままでは、尻は割れ、穴は増殖の一途を辿る。



 ならば、反撃に形伴(かたちともな)わぬ食の落とし子を掴み投げるべきか?


 そう考えた瞬間、洗濯をしていた白銀の麗人が現れ、子どもを制した。

 どうやら、彼女の子であるらしい。


 言葉こそ通じぬものの、深々と頭を下げる姿から、謝意はひしひしと伝わる。私は気にしていないと身振りで示し、彼女もまた、理解を示してくれた。




 その後、扉の在りし場所へと戻るも、すでにその姿はない。

 呆然と立ち尽くす私へ、白銀の女性は手招きをし、家へと誘ってくれた。

 かくして私は、彼女の厚意に甘え、一夜の宿を借りることとなる。



 木造の素朴な家に招かれ、食卓を囲む。


 食事は見目も味も、まさしくシチュー。かぐわしき湯気が立ち上り、心をほっと和ませる。


 傍らでは、彼女が奇妙な薬草と液体を調合している。やがて完成したのは、漆黒の丸薬。


 彼女はそれを一粒手に取り、私に差し出した。

 さらに、穏やかにお腹をさする仕草――なるほど、これは腹の薬か。

 なんと心優しきことか。


 私は感謝の意を伝え、残りの薬を瓶ごと譲り受けた。

 その後、彼女と握手を交わす。

 指先に触れた瞬間、驚愕。


 肉球――


 ぷにぷにと柔らかく、愛らしい感触。

 思わず名残惜しく手を離さぬ私に、彼女は首を傾げるも、やがて微笑を浮かべた。


 そこへ、突如響く怒声。


 振り返れば、険しき表情を浮かべた犬の男。

 彼は彼女を睨みつけ、詰め寄る。子どもは怯え、泣き声を上げた。


 まさか――間男と誤解されたのか!?


 否、誤解とはいえ、あまりに短慮。

 愛する者の話も聞かず怒鳴るとは、何たる愚行か。

 とはいえ、放置すれば彼女とその家族を不幸に陥らせてしまう。


 私は決意する。


 雄々しく唸り声を上げ、男の注意を引く。

 さらに、下腹を押さえ、再び唸る。

 男の目が見開かれる。


 そして――


 私は、うんこ座りを取った。

 決死の覚悟で括約筋に力を込める。


 犬男、犬だが狼の文字を抱く二字熟語を用いて――狼狽。


 その隙に、テーブルにあった薬の材料を指し示す。

 男の瞳に、理解の色が宿る。

 やがて、彼は涙ながらに彼女を抱きしめ、詫びた。

 ふぅ……というため息とともに、出口まで訪れていた奴らを引っ込める――危うく、様々な意味で大惨事を招くところであった。



――――――

 夜が明け、扉は元の場所に戻っていた。


 犬の家族に見送られ、私は異界を後にする。

 気がつけば、私はいつものトイレに立っていた。

 後ろを振り向けば、そこにあるのは我が伴侶、便器。



 ポケットには、腹薬。

 今回もまた、夢ではなかったようだ――。


 腹薬は非常にありがたい。

 しかもこの薬、風邪や頭痛といった他の症状にも効果的な万能薬。

 いやはや、本当にありがたいものを戴いた。

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