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世界を巡る~美犬さん・カーテンの向こう側~

 私は、重厚な沈黙の中に佇んでいた。

 眼前にそびえるトイレの扉。その前にて静かに足を止め、胸中に去来する思念と対峙する。

 手に携えるは、かの経典――愛と信頼、そして絆という、尊き理念を謳い上げた、一冊の聖なる書。



「これが必要なのは、残る三世界で……あそこか」


 静かなる決意と共に、私は厳粛な動作で扉へと手を伸ばした。

 鉄の蝶番がわずかに軋みを上げ、扉は内側へと静かに開かれる。



 その向こうに広がる景色のただ中に、凛とした気配があった。

 澄みわたる水辺にて、黙々と衣を洗うひとりの女性――否、美しき犬の女。かつて、私が一宿一飯の恩を受けた、あの人であった。


「やぁ、久しぶりだな。以前は世話になった」

「え? あなたは……あれ、言葉が?」

「このネックレスのおかげで、君の言葉がわかるようになった。それで話が――」



 だが、その穏やかな再会の空気を引き裂くように、怒声が大気を震わせた。


「お前ら、そこで何をしているっ!!」


 鋭く耳を劈くその声は、忘れ難き記憶の底に焼きついていた――男犬のものである。


 彼は子供犬の隣で、怒気を全身に纏い、鋭い眼差しで私たちを射抜いた。

 その表情には、迸る憤怒と、抑えがたき悲哀、そして打ち消したくとも湧き上がる疑念が、ないまぜになって浮かんでいた。


「やっぱり俺を裏切っていたのか! 絶対に、絶対に許せん!」

「待って、あなた! 違うの、誤解よ!」


 懸命な弁明も、怒りに支配された男犬の耳には届かない。

 彼はただ激情のままに、罵倒の言葉を吐き続ける。

 その様を、子供犬は怯えと悲しみに満ちた瞳で見上げていた。

 父と母が、互いに傷つけ合うその光景は、彼の小さな心に痛みと共に刻まれ続ける。


 私は、深く息を吸い込み、己の使命を改めて胸に据える。

 この世界に欠けているもの――それは、まさしく愛であり、信頼であり、互いを結ぶ絆であると。


 私は、静かに声を発した。


「聡明草、あいつを縛れ」


 私の右手より解き放たれた蔓は、意思をもって空を走り、男犬の四肢を絡め取った。

 抗う間もなくその身を地に伏せられ、彼は呻き声を漏らしつつ、私の足元に横たわる。


 美犬さんは、思いもよらぬ光景に言葉を失い、その場に立ちすくんでいた。

 私は、静かに手にしていた経典を彼女に差し出す。


「これを読んでみてくれないか?」

「こ、これは?」

「君たちに必要なものだ」



 彼女は躊躇いがちにそれを両の前肢に受け取り、おそるおそる頁を繰っていく。

 やがて物語の核心に至ったとき――その瞳には、確かな光が宿り、頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。


「こ、このような……素晴らしい教えがあるなんて……」

「君たちに足りないものは、信頼や絆、そして愛だったのでは?」

「……はい。ある日を境に、信じあう心が失われてしまいました。わずかでも疑念を抱けば、相手を糾弾せずにはいられない」


「だが、君は違うな」

「どういうわけか、私はあまり影響を受けてないみたいで」

「この世界は、可能性を君に託したのかもな」


「え?」

「さぁ、その経典を夫に届けるといい」

「はい」



 彼女はそっと男犬のもとへと歩み寄り、その傍らに膝を折る。

 そして静かに、柔らかな声で、経典に記された言葉を語り始めた。

 それはまるで、失われた旋律を取り戻すかのように、心に染み渡るものであった。


 子供犬もまた、母の口から紡がれる言葉に耳を澄ませ、その小さな胸の奥に、ふたたび静謐な光を灯し始めていた。

 彼女が語り終えたとき、父と子の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出す。


 私はそっと命じる。


 聡明草は静かに蔓をほどき、男犬の四肢を解放する。

 自由を取り戻した男犬は即座に起き上がると、妻と子を、その腕に力強く抱き締めた。

 妻もまた、夫と子をその優しき胸に包み込む。

 その狭間で、幼き子は満ち足りた涙を頬に滲ませていた。


 そこにあったのは、まごうことなき愛。真実の信頼。そして、かけがえなき絆。


 私は微笑みを含んだ声で、美犬さんに言葉をかける。


「もう、大丈夫だな」

「はい」

「ほかの人たちにも、経典の教えを伝えるといい」

「ええ、もちろんです。私たちの世界に、再び愛を復活させるために……ありがとう」

「礼には及ばない。では、末永く幸せにな」


 私は静かに踵を返し、心に次なる使命を宿して、ふたたび旅路を歩み出す。

 未来への希望を胸に、私は静かに、トイレの扉を開いた。




 私は扉をくぐり、その向こうに広がる光景へと慎重に視線を這わせた。

 目に飛び込んできたのは、すべての窓という窓が重苦しい幕で覆われ、外光を一切拒んだ広間の佇まいであった。


 壁には豪奢な装飾が施され、調度品の一つ一つが、富と栄華の記憶を想起させる。

 しかし、その煌びやかさの裏には、どこかひどく寒々しく、魂の空洞すら思わせる静謐が漂っていた。



 私は、右手に絡みついたままの聡明草の蔓に目を落とす。


「お前の出番だな」


 その呼びかけに応えるように、聡明草の蔓は先端を小さく跳ねさせた。

 まるで「任せろ」と意思を告げているかのような、生命の律動がそこにあった。


 再び辺りを見やると、深い沈黙を破って車椅子に身を預けたご婦人と、その傍らに控えるメイドの姿が静かに現れた。


「あらあら、お久しぶりね。また、トイレ?」

「いえ、ご婦人。今回は……あなたの星を救いに来た」

「えっ?」

「さぁ、外へ」



 私は彼女たちを伴い、重々しい玄関扉を押し開ける。途端に吹き込む風が、屋敷の淀んだ空気を切り裂いた。

 外に広がるのは、かつて命が息づいていたとは到底信じがたい荒涼たる大地。空は鉛色に垂れ込め、遠雷が絶え間なく響き、閃光が幾度となく空を裂いている。


 私はその光景に一瞥をくれ、懐から小さな種子をいくつか取り出した。

 それは、聡明草の吸盤付きの種。

 乾いた地表に丁寧に押し込み、覆土もそこそこに、私はリュックより取り出した2リットル59円(税別)のミネラルウォーターのボトルの蓋をひねった。


 無言のまま、水を注ぐ。

 透明な液体が乾き切った土へと沁み入り、ひと雫ごとに音もなく、大地の奥へと命の記憶を届けていく。



 その光景を見つめるご婦人は、悲しげに首を横に振り、呟くように言葉を漏らす。


「無駄ですよ。大地は息絶え、いかなる生命も命を宿すことは叶いません」

「普通の植物ならそうでしょう。しかし、聡明草は違う。見せてやれ、お前の本気を!!」



 私は地に目を注いだ。

 その瞬間、微かな破裂音――ぽふんっ――と共に、地表を押し分けるようにして、二枚の若葉が顔を覗かせた。


 ご婦人は短く息を呑み、次に言葉を継ごうとしたが、その思いは聡明草の勢いに掻き消された。

 蔓は地表の亀裂に沿って奔り、まるで渇ききった死土を抱きしめるかのように、光の軌跡を描いていく。


 次々と葉が芽吹き、やがて色とりどりの花々が咲き誇る。赤、青、黄――見知らぬ植物たちがその姿を現し、大地に呼吸をもたらす。

 それは、聡明草の力によって甦った生命たち。かつてこの地に眠っていた命が、再び呼び覚まされたのだ。



 その躍動は、私の想像を遥かに超えていた。

 蔓の伸長は、私が排便を終えるよりも遥かに素早く、緑は地平線の向こうまで一息に覆い尽くしてゆく。


 風が震え、大気が揺れる。私は目を細め、空を仰ぐ。

 沈鬱だった雲は引き裂かれ、割けた空から澄み渡る蒼天が顔を覗かせた。

 太陽が、長き眠りから覚めたかのように光を降り注ぎ、大地は命の輝きを浴びて煌めいた。


「さすが、一度はわが家を占拠しただけある。本気を出せば、星一つ程度一飲みというわけか」


 聡明草は私の頬にそっと蔓を寄せ、その柔らかな触れ心地が、私の口元に微笑をもたらす。


 傍らのご婦人は言葉を失い、その光景を呆然と見つめ続けていた。

 やがて、震える声で、感情の波を抑えきれずに漏らす。


「しんじ……られない。私たちが何度も蘇らせようとした大地が、大地が……う、うう、ううう」


 溢れる涙が彼女の指先からこぼれ落ち、大地に吸い込まれていく。

 その一滴もまた、新たな命の一部となることだろう。


 その横に控えていたメイドの表情には、なぜか微かな哀しみの翳りが射していた。私は静かに、しかし率直に問いかける。


「どうした?」

「いえ。ただ……私には涙を流す機能がありませんから」

「ほぅ、そうなのか。しかし、それでなぜ、そんな寂しい顔をする?」

「お館様のように、嬉しいという思いを表せないことに寂しさを感じています」

「ふん、下らん」

「え?」


「何も涙を流すことだけが嬉しさの表現じゃないだろう。君は嬉しいという思いを持っている。ならば、それを吐き出せばいい」

「どのように?」

「前を見ろ! 何がある!?」

「まえ……植物です。データでしか見たことのない、命溢れる大地です」

「目の前の葉に、花に触れてみるがいい」



 メイドはそっと手を伸ばし、ひとひらの花弁に触れた。その瞬間、彼女の瞳に光が宿る。


「生きている。造花ではなく、暖かい命……なんでしょう? エモーショナルチップの熱が上昇していきます……あつい、とてもあつい」

「よしっ、その思いを思いっきり吐き出せ!!」

「はいっ!」



 突如、彼女は胸を張り、誇り高く感情のすべてを解き放った。


「いぃぃぃんんんてるうううう!! はぁぁぁいってぇぇぇるうぅぅぅ!!」


 その叫びは空間を震わせ、私たちの鼓膜に容赦なく打ちつけた。

 ご婦人と私は慌てて両耳を押さえる。


 もし、この瞬間に耳を塞いでいなかったならば、ご婦人の寿命は儚く尽き、私もまた年甲斐もなく無様な失態――――お漏らしをしていたに違いない。


 やがて声が静まると、辺りには穏やかな静寂が戻っていた。

 振り返ったメイドの顔には、もう一片の寂しさも宿っていなかった。

 ただそこには、あふれる喜びと誇り、そして確かな『生』があった。


 かつての美しき大地を取り戻したご婦人。

 自身の感情を、機械の身体でありながら、力強く表現し得たメイド。


 二人の満ち足りた笑顔を見つめながら、私は背後に満ちる温かな風のぬくもりを、心の奥深くに受け止めた。


 では、行こうか。

 始まりにして、最後の世界へと通じる、あのトイレの扉へ――。

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