世界を巡る~密林・地球?~
重厚なる扉を押し開き、その先で私を迎えたのは、熱気を孕んだ濃密なる空気と、天を覆わんばかりに鬱蒼と生い茂る樹木の海であった。
湿潤なる熱帯の風が肌を撫で、まるで思考そのものを蒸し焼くかのような錯覚に襲われる。
この地は、かつて理性を持っていたはずの人々が、今や思考の機能を喪失し、感情と本能のみで生きる密林の楽園。理性の廃墟とも呼ぶべき場所だ。
私はこの世界にて、かの杖を授けてくれた老公と再び言葉を交わすべく、朽ち果てた摩天楼のごとき廃墟を目指すこととした。
その道すがら、幾人もの男女とすれ違うが、彼らは私の存在を認知しているにもかかわらず、一切の関心を示すことなく、自らの内に閉じた世界に沈潜していた。
やがて辿り着いた廃墟の一角。
私は重く軋む扉を開き、老公の住まう部屋へと足を踏み入れる。
そこには、座したまま無言で虚空を見つめ続ける老人の姿があった。その眼差しは何ものも映さず、ただ果てしなき無の深淵を彷徨っているようであった。
私はためらうことなく、老公の細りし身体を抱き上げ、そのまま廃墟の中央に位置する広場へと運び、静かに地面へと横たえる。
そして、周囲を彷徨っていた数人の子どもたちを見つけ出し、彼らを適宜に並べて腰掛けさせた。
──これにて、すべての準備は整った。
私はリュックサックの中より、紙芝居を取り出した。
そして、記憶の片隅に存在する昭和の風習を呼び起こす。
紙芝居とはすなわち──ベルの音と甘き菓子と共に在るべきもの。
私は銀の鈴を掲げ、それを勢いよく振り鳴らす。
乾いた金属音は、廃墟の石壁に幾重にも反響し、まるで天上より鳴り響く召喚の鐘のごとき威力を以て人々の耳朶を打つ。
音に誘われるようにして、廃墟の陰影より数名の者たちが、そっと顔を覗かせる。
その気配を逃さず、私は即座に小袋に詰めた菓子を手渡し、場の空気を和ませると同時に、静かに紙芝居を開幕させた。
「は~い、よいこのみんな、物語がはじまるよ~」
その声音は『異なる地球』にて、幼子たちに読み聞かせをしていたものと寸分違わぬもの。
この紙芝居に描かれているのは、姉が妹のために紡いだ、ある優しき物語。
内容はあくまで平易でありながらも、少年少女の胸に秘められし冒険への渇望や、未知への憧憬を喚起する仕掛けが随所に織り込まれていた。
語りは進み、物語はやがて頂点──佳境へと至る。
しかし、その最後の一頁、肝心なる結末の一捲りは存在しなかった。
私はそれを、異なる地球にて置き忘れてきたからだ。
終幕を待ちわびていた者たちは戸惑いを露わにし、口々に不満の言葉を発し始めた。
無理もないことだ。だが、私はそれに応じず、あえて語りの手を止めたまま、問いを投げかけた。
「君たちなら、どのようにして物語が終わると思う?」
この問いかけは、まさしく火種となった。
言葉を失っていた大人たちがどよめき、ざわつく中、一人の少年が立ち上がり、澄んだ声で答える。
「いっぱいの宝物を手に入れて、幸せに暮らしたんだ!」
その純粋な想像は、周囲の者たちの沈黙を破る契機となった。
他の子どもたち、大人たちまでもが、次々と己の思い描く結末を語り始める。
誰かが声を生むたびに増していく物語。
物語の終幕は、もはや一つではなく、無数の結末が交錯し、枝分かれし、絡み合いながら、新たなる物語の胎動となっていった。
私はリュックの底より、真新しき画用紙の束と、使用感の残るクレヨンを取り出し、それらを彼らに手渡した。
「君たちが最高の物語を作り出すんだ」
その声に促され、彼らはそれぞれの内に芽吹いた物語を描き始めた。
ある者は一人の旅路を、またある者は仲間とともに歩む冒険を。
そして、いつしかそれらの物語は互いに交差し、共鳴し合い、やがて一つの大きな物語となって膨れ上がっていった。
彼らはもはや私の存在を忘れたかのように、創作という遊戯に没頭していた。
その様子を見守っていた老公が、ふいに私のもとへと歩み寄り、穏やかな声音で言葉を紡ぐ。
「我々が忘れていたもの、欲していたものは、わしの思っていた思考力とは違ったようじゃな」
「というと?」
「わしらに必要なものは、生活を豊かにする思考力だと思っていた。しかし、必要だったのは遊び心……心の豊かさこそが必要じゃったようじゃ、あははは」
老公の瞳は、もはや曇りなく澄み渡り、まるで童子のように輝いていた。私はその瞳に映る少年の姿に微笑を返し、扉の元へと静かに歩を進める。
その背に、老公の声が届いた。
「物語を作ったのは、おぬしなのか?」
「いえ、ある世界で、心優しい姉が妹のために作ったものです」
「そうか。物語を通して、創り手の暖かな心が伝わってくる。その方に、礼を伝えておいてほしい」
「……ええ、必ず」
私は老公の想いを胸に刻み、新たなる旅路へと踏み出す。
次なる世界──異なる地球へと。
扉を開けた途端、天地を裂くかの如き轟音が響いた。
私は一目散にトイレより飛び出し、校門の傍らへと駆け寄る。
そこでは、以前出会った学友と、宇宙の彼方より訪れし異邦の者たちが、対峙の構えで互いに睨み合っていた。
「おい、大丈夫か?」
「えっ? あ、君は、別世界の!?」
「ああ、そうだ。一体何が起こっている?」
「コロニーを落とされ、生き残った人たちを学校へ避難させようと、だけどっ!」
私の傍らに立つ彼は、烈火のごとき眼差しで異星の来訪者を睨み据える。
その双眸より迸る敵意の波動を感じ取ったのか、宇宙の客人は凄まじい声を上げた。
「シャシャシャシャシャ、ミ~ン、ミ~ン、ミミミミミミミ!」
その不協の旋律は、あたかも蝉時雨の狂乱にも似て、耳を劈き、心を苛立たせ、学友たちは皆、両耳を抑え呻き声を漏らす。
「ひ、ひどい、音だろ。頭が痛くて、イライラしてくる」
「ふむ……」
私は一歩前へ進み、宇宙人の風貌を改めて注視する。その姿は――紛れもなく、夏の木陰にて鳴くセミの如し。
ただし、それは人間と同等の体躯を有し、血のように紅きジャケットを羽織り、長大な棒を携えていた。
そして、彼らの発した言葉……それは。
「ワレラノ、オクリモノ、ユルサナイ? 意味がわからないな」
「え? まさか、君……あいつらの言葉がわかるのか?」
「ああ、こいつのおかげでな」
そう述べながら、私は懐より青き宝玉をあしらった首飾りを取り出し、学友へと手渡す。
「これは翻訳機だ。言葉が通じなくて、誤解を生んだと聞いていたから、おそらくこれがこの世界に必要ものだと思い、何個かもらってきた。つけてみてくれ」
「わ、わかった」
「よし、では、宇宙人に話しかけてみよう。宇宙人よ、私の言葉はわかるか?」
「ギ? ワカル。ワレワレハウチュウジンダ」
「ふむ~、翻訳ネックレスをもってしても、片言か。相当言語が違うと見える。しかし、通じないわけじゃないな。さて、続きは――お前が宇宙人と話すんだ」
「お、俺が?」
「当然だろう。ここはお前の世界だ。お前がやらなくてどうする? ようやく、宇宙人と意思の疎通ができるんだ。やれっ!」
「強制かよ。わかったよ、やってやる!」
「その意気だ!」
私は彼の背を勢いよく叩き、前線へと送り出した。
彼と宇宙人の代表は、両陣営の狭間へと歩を進め、稚拙ながらも言葉を交わし始める。
やがて彼は、その顔を紅蓮の如く紅潮させ、怒りをあらわに叫んだ。
「ふざけるなっ! アレのせいで、どれだけの人が亡くなったと思っているんだ!!」
「フザケテイルノハ、オマエラダ! あれガドレダケキチョウカ、マルデワカッテイナイ!!」
激情の応酬は周囲の空気を震わせ、双方の陣営は同時に武器を構え始める。
このままでは火蓋が切られよう。
私は二人の間に静かに割って入り、両の手を掲げた。
「落ち着け、二人とも。せっかく話せるのに、武器を手に取るのか?」
「しかし、こいつが!」
「とにかく落ち着け。何があった?」
「君は巨大な虫を見たことあるよな?」
「ああ、あるが」
「アレは人を食う虫だ。多くの人がアレに食われた。なのに、こいつは虫を殺した俺たちを野蛮人だと、礼儀知らずだと罵った!!」
「礼儀知らず? ちょっとまて、宇宙人からも話が聞きたい」
私は宇宙人へと歩み寄り、事情を質す。
「あれハタイヘンキチョウナモノ。ナノニ、チキュウジンハ……」
その声を受け、私は両者のもとを幾度も往復し、それぞれの主張を咀嚼し、整えてゆく。
「大体、わかった。誤解が誤解を生んで、こんがらがったんだな」
「どういうことだ?」
「ドウイウコトダ?」
「現状、お前たちでも理解できていることは、最初の衛星が放ったパルスに攻撃の意図がなかったこと。その後の行為も、悪意を持っていなかったこと。ここまではいいな」
「ああ」
「アア」
「問題はアレ、虫の存在だ」
「そうだ、突然虫を放ち、俺たちを苦しめた!」
「ソウダ、オレタチノオクリモノヲハカイシタ!」
「贈り物? ふざけるな!」
「クルシメタ? フザケルナ!」
「説明するから二人とも黙れ! とりあえず、宇宙人にこちらの事情を話すからな」
私は、宇宙人が放った虫により、多くの地球人が命を落とした事実を告げた。
そのとき、宇宙人の顔に色が失せた――いや、顔色はわからぬが、間違いなく青ざめていたはずだ。
「ソ、ソンナ、あれガ……」
私は振り返り、学友に向けて説明を続ける。
「あの虫が、宇宙人からの贈り物なのは間違いない」
「あれが贈り物だと?」
「あの虫は、彼らのとって最高の…………食べ物なんだ」
「…………は? いや、アレは食べ物じゃないだろ?」
「いや、結構美味だったぞ」
「食ったのか!?」
「こちらに初めて来たとき襲われてな。だから、逆に食ってやった」
「よ、よく、そんな真似ができるな……」
「まぁ、つまり宇宙人は、言葉が通じないなりに、自分たちの最高の食料を地球人に渡して、誠意を汲み取ってもらおうとしていたらしい。結果は、残念だったが……」
かくして、悲劇の構図は明らかとなった。
彼らは最上の贈り物を託した。だが、その贈り物は地球人を捕食し――地球人は恐怖と怒りのうちにそれを『駆除』した。
宇宙人は誠意に対して、唾棄を持って迎えられたことに怒り、ついには武力へと訴えた。
そのすべては、言葉ひとつ、理解ひとつの欠如から生じたのだ。
「ワレワレハ、ナントイウアヤマチヲ……」
「過ちじゃ済まねぇよ! 見ろよ、町を! 人を! 星を! ボロボロじゃねぇか!!」
クラスメイトは銃を構え、引き金に指をかけた。
だが、宇宙人はおろか、その同胞たちも一切の抵抗を見せぬ。
私はただ、黙して見守った。
彼は叫びとともに引き金を引いた――蒼穹へ向けて。
「くそっ! こんなバカげた話あるかよ! あってたまるかよぉぉぉ!!」
彼は銃を地面に叩きつけ、嗚咽とともに、声の限りに叫び続けた。
小一時間ばかりの時が静かに過ぎ去ったのち、私の歩みは、校庭の端にひっそりと根を張る老木の袂へと導かれた。
そこには、ひとり静かに佇み、遠く虚空を見据え、物思いに耽る学友の姿があった。
私はゆるりと歩み寄り、その傍らに立ちて、言の葉を落とした。
「どうだ?」
「なにがだ?」
「いろいろだ」
「さぁな、今まで何やってたんだろうな、俺は……これから、どうすればいい?」
「……とりあえず、宇宙人の代表と地球人の代表とで話し合いがもたれるようだ。虫の方は宇宙人が処理するとさ」
「あとは、上の連中が決めるってか。はっ!」
彼は嘲笑の声を飛ばし、足元に転がっていた小石を拾い上げると、それを軽く放った。
小石は空気を切って地を滑り、やがて、陽光に照らされる広き校庭の一隅に転がり止まった。
その先では、無邪気な子どもたちが、追いかけっこに興じている。その光景を見やりつつ、彼はぽつりと呟いた。
「もう、怯える必要はないか……終わったんだな」
「そうだな」
「なら、いいか……よくないけど、いいや」
「溜まっているものがあるなら、付き合うが?」
「100年あっても尽きないよ。ふふ、ありがとうな」
その言葉には、幾分かの軽やかさが宿っていた。彼がかすかに微笑み、ゆっくりと顔を上げた、そのとき――
校庭の彼方よりひとつの球が飛来し、見事な精度で彼の顔面に命中した。
彼は眉をしかめつつボールを拾い上げ、遠くから手を振る子どもたちに向かって、怒りを交えた全力投球を放つ。
「どりゃあぁ!!」
「ご、ごめんなさ~い!!」
「ふんっ!」
「子どもに当たるなよ」
「俺が当てられたんだよ、顔に!」
「元気がありそうで何よりだ。それじゃ、私は行くよ」
「世界を回っているんだってな。君は君で大変そうだ」
「ふふ、人を気遣う余裕あるなら大丈夫だな。では、またな」
「ああ、また」
別れの言葉を交わし、私はひとり、校舎の中へと歩みを進める。目指すは、我が転移の源たる場所――すなわち、トイレである。
その途中、ふと、ひとりの幼き少女の姿を視界に捉えた。
その子はかつて私に紙芝居の朗読をせがみ、無垢なる期待の眼差しを向けてくれたあの少女。
私はその傍らに歩み寄り、少女へと、ある方の尊き御心を伝えるべく、穏やかな声をかけた。
「やぁ、こんにちは。久しぶりだな」
「うん、こんにちは」
「君からもらった紙芝居は、たくさんの人が楽しんでいるよ」
「ほんと! うれしい!」
彼女は小鹿のごとくぴょんぴょんと跳ね、その喜びを全身で表している。私はその小さき背に、穏やかな手を振り、再び歩を進める。
――いざ、トイレへ戻ろう。