世界を巡る~勇者~
私は包丁を手に取り、その刃をそっと光にかざした。わずかに煌めいた刃先が、まるで未来の予兆を映すかのように鋭く輝く。
深く息を吸い、心を鎮めつつ、私は慎重にトイレの扉へと手をかけた。
刃物を握る手には、微かなる震えが宿る。
恐れか、それとも、これから始まる運命への予感か。
静かに扉を押し開けると、突如として男の絶叫が耳をつんざいた。
「きゃっ!? な、なんだ、お前か」
「勇者か。何をビクついている?」
「突然扉が現れ、刃物を手にした男が現れたら驚くだろ!?」
「それはすまない。ここは、初めて出会った森かな?」
「ああ、ちょうど今から神の試練を受けに行くところだ。この剣で、次こそは神に一太刀入れてやる!」
彼は背負った剣へと一瞥を送り、その言葉に気勢を込めた。だが、心の奥に巣食う不安がその瞳の端々に見え隠れしていた。
剣を背負い覚悟は見せているが、彼の確信は揺らいでいるようだ。
「本当にそいつで、神は斬れるのか?」
「それは……だが、やるしかない」
「自信があるわけではないのか。よし、私も同行しよう」
「なに? 危険だぞ」
「わかっている。だが、この包丁が神を傷つけられるかもしれない」
「包丁が? そんなはず――」
「まぁ、行ってみよう。私も君と同じで自信はないのだ」
「はは、お前から自信のない態度などまったく見れやしないが。わかった、ついてこい」
こうして、勇者に案内され、私たちは山の頂へと向かうこととなった。
険しい道を辿りながら、雲海が広がる壮麗な景色が私の目に飛び込む。
その静けさに包まれるように、勇者は両手で大剣を握りしめ、決意を新たにする。
「神よ! 人の力を見せに来た。我らの成長の証を受け取るがいい!」
その言葉がやまびこのように山に響き渡ると、空気の震えと共に、異様なものが現れた。神と呼ばれる存在が、陽炎のように、ゆらりとその姿を現したのである。
その神は、巨大な頭を持ち、ギラリと輝く瞳で私たちを見据えていた。腕は無数に生えており、そのひとつひとつが蠢きながら、空間を引き裂く。
勇者はその姿に冷や汗を浮かべ、声を震わせながら告げる。
「お、おぞましい姿だろ。アレが神の姿なんだぜ」
「あれが、神? 見た目は人からかけ離れ、無数の腕を持つ、か……フ、勝ったな」
「え!?」
私は無数の触手に目をやり、じゅるりと涎を拭った。
神の姿は――タコそのものだった!
タコ神は空気を震わせ、私に向かって語りかけてきた。
『異界の者よ。何ゆえ、我が子らに与えた試練に介入する?』
「ほぉ、さすがは神だな。私が異界から来たと知っているとは。私は別に介入する気はないのだが……トイレの扉が彼らを放っておけないと言うので、少しばかり手助けをな」
『面白い。そこな勇者と違い、何の力も持たぬお前に何ができるか、示して見せよ!』
次の瞬間、神は巨大な触手を振るい、私に向かって猛然と襲い掛かってきた。だが、私は冷静に対処する。
「ふふん、神よ。私が海洋国家の民であったことを後悔するがいい。いただきま~すっ!」
包丁を鮮やかに振るうと、神の触手が真っ二つに切り裂かれ、神はその痛みにのたうち回る。
『ぐぉぉぉ! ば、馬鹿な、我を傷つけるとはっ!?』
「神よ、お前は食材だからな」
『なんだと?』
「ほら、勇者。包丁を持て。お前が神を傷つけないと意味がないのだろう」
「あ、ああ。しかし、その包丁は一体?」
「これは、食材ならば何でも切れる包丁だ」
「しょ、食材? だが、神は食材では……」
「何を言う、美味そうじゃないか」
「いや、不味いだろアレは、不気味だし」
『お、お前ら、一体何を話している?』
「お前を食べる相談をしているんだ。ちょっと待ってろ」
『え?』
「勇者、火の魔法などは使えるか?」
「ああ」
「では、そこらで焚き火の準備をしてくれ」
「お? わ、わかった」
勇者が木の枝を集め、火の魔法を放つと、焚き火が灯った。私は神の切り裂かれた部分を、適当な大きさに切り分け、それを炙り始める。
「どうだ、美味そうな匂いがするだろう」
「クンクン、たしかに」
「よし、焼けた。食ってみろ」
「く、食うのか、これを?」
「しょがないな。私が見本を見せるから……もぐもぐ、ごくん。美味い! 神よ、お前美味いぞ!」
『ええ~、我を食したの~……』
神の肉は、思いのほか美味で、私は次々とその破片を口に運ぶ。
勇者は、私の豪快な食べっぷりをしばし呆然と見つめていたが、やがてその表情に微かな安堵の色を浮かべると、おずおずと神の破片を手に取り、慎重に口元へと運んだ。
「モグモグ。こ、これは、噛めば噛むほど味が染み出てきて、食欲が増し、モグモグ、旨味の凝縮された味わい。酒が欲しくなってくるな」
「美味いだろ。これで、食材と認識できたな。では、包丁を持ち、神を、食材を切れ!」
「おう、任せろ。神よ! おかわりをよこせ!!」
『ちょっと待て! 落ち着け! 少し考えろ!! おかしいと思わないのか!?』
「問答無用! うおぉぉぉぉぉぉぉ!!」
『く、くるなっ! こっちにくるなぁあぁぁぁぁぁ!!』
勇者は、その手に包丁を携え、神に対して確かなる人の力を示した。
神は無数にあった御手はすべて失い、もはや抵抗の術もなく、その異形の眼に涙を宿した。
人の歩みに、成長に、そして意志の力に打たれた神は、ひとしずくの感涙を頬に伝わせると、静かに身を翻し、全速力で世界を後にした。
「これで世界は救われたのだな、勇者よ」
「ああ、そうだ……できれば、他の部位も切り落としたかったが、じゅるっ」
「ふん、涎とは。勇者とあろう者がはしたないぞ」
「これは失礼。神よ、またいつか……」
「では、私は帰るとするか」
「他の世界を救うために巡るんだな」
「ああ」
「そうか、頑張ってくれ」
私たちは固く手を握り合い、食を通じて結ばれた友情の証をタコ味とともに噛み締めた。