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世界を巡る~象の町~

 料理本を携え、私は静かに一つの祈願を捧げた。

 その祈りは、神仏に向けられたものではない。

 ただ己の推測と、儚き希望とに対してである。



 では、行こう。象の町へ――。



 独白の如き呟きを胸に秘め、私は厳かにトイレの扉へと歩み寄った。

 静謐なる気配を纏った扉に手をかけ、重々しい軋みを伴って開き放つ。


 目に飛び込んできた光景に、私は言葉を失う。

 そこには見るも哀れなる凋落の有様が広がっていたのだ。


 象の民らは、無表情にして無力。頭を垂れ、料理を前にしてなお、手を伸ばすことすら叶わぬ有様で、虚ろな眼差しを空に泳がせていた。 

 かつて隆盛を誇ったであろうこの食堂は、今や生ける屍の集いと化していたのだ。


 私は胸中に痛みを覚えつつ、厨房へと進みゆく。

 そこには、豪胆にして剛腕の料理人――象の大将が、無惨にも地に伏していた。


「おい、大丈夫か!?」

「う、うぅ、お前さんは……」

「食べてないんだな?」

「ああ、見ての通りさ。もう、このまま……」

「待て! 諦めるのはまだ早い! こいつを大将に届けに来た!!」



 私はリュックより、秘蔵の料理本を取り出し、高々と掲げた。



「この本を使って、新たな料理を作るんだ!」

「はっ、どんな料理本だろうと、俺たちの作る料理には敵わないよ」

「いいから試してみろ。料理人としての意地はないのか!?」


「くっ、料理人の意地だと!? わかった。そこまで言うなら、試してやろうじゃないか!!」



 誇りを刺激された彼は気力を振り絞り立ち上がり、長き鼻で料理本を受け取り、ページを捲っていく。


「文字がわからないぞ」

「絵があるだろう。絵から似たような食材を選び、料理すればいい」

「ほぉ、面白い。なら、いっちょやってみるか」


 大将は、搾り出すように最後の気力を奮い立たせ、重たげな腰を上げた。そして、一冊の料理本を頼りに、黙々と調理を始める。


 見知らぬ言葉の羅列に翻弄されながらも、彼は調理台の前でひとり、孤独な戦いに身を投じていた。

 その背に、私はじっと目を凝らす。歯噛みするように、拳を握りしめながら。


 これは、賭けであった。


 私は意図的に、その料理本に翻訳の術を施さなかった。理解を助けるはずの翻訳フィルターを、あえて拒んだのだ。



 以前、私は文字の読めぬまま、料理本に描かれた挿絵のみにすがり、あてどなく調理を行った。

 そのときに生まれたのは、不気味な虹色の料理。


 文字が読めれば、料理本の指示通りに事は運び、相応の料理が完成していただろう。しかし、それが叶わなかったがゆえに、あの異様な色彩をもった創造物が生まれたのだ。


 だが、そこで私はある一つの可能性に思い至った。


 もしも大将が、同じように文字を解さず、ただ己の直感と勘だけを頼りに調理をすれば──そこにまた、あのときのような『何か』が生まれるのではないか。

 計算されず、整えられず、ただ彼自身の混沌と情熱とが鍋の中で渦巻いて、奇跡のように不可思議な一皿が姿を現すのではないか。


 それこそが、彼らを救う唯一の灯火となるのではないかと。



「……できたぞ。これ、大丈夫か?」


 ふり返った大将の手には、七色に煌めく、得体の知れぬ料理が載っていた。


 私は、すべてを悟った。

 あの虹色の怪異、それは素人の手によるものではない。

 プロの手によってもなお、未知は未知のまま、かくも異形なる姿を現す。


 私の考えは過ちだったのか?

 匙を取り、口へと運んだ。


「もぐもぐ……うん、不思議な味だ」

「美味いのか? 不味いのか?」

「わからん」


 言葉が、舌が、感覚が追いつかぬ。

 それは味覚でありながら、味覚でない。

 認識と拒絶の狭間に漂う、正体不明の存在。


 失敗か。

 そう思い、匙を置こうとしたその時だった。


 大将が、ふらつきながら寄ってきた。

 そして無言で、私の匙を奪い、同じ料理を口にした。


「大将?」

「調理中、味見をしたが普通だった。しかし、なぜか完成すると七色に光ったんだ。理由が知りたい」


 そう言うが早いか、大将は、湯気を立てる虹色の得体の知れぬ塊を口へと運んだ。


「モグ……うっ!」

「どうした!? 不味いなら無理せず吐き出せ」

「ま、不味くはない。だけど、美味くもない。味はあるのに味がない。なんだこれは?」


 呻きながらも、彼は皿に手を伸ばす。

 答えを求め、苦悩しながら、食べ続ける。


 やがて、大将はすべてを平らげた。


 彼の額には汗がにじみ、顔は蒼白、膝は震えていた。

 だが、その目には、かつての猛々しい光が宿っていた。


「大将、大丈夫か?」

「これは……なんだ!?」

「いや、私に聞かれても。作ったのは大将だろ」

「わからない。わからない。未知の味。もう一度、食してみて……ん?」



 彼が、私の背後を見据える。

 振り返れば、そこには――テーブルに倒れていたはずの象の民たちが、静かに集っていた。


 大将は彼らに向かって叫んだ。


「丁度いい、みんなもこれを食べてみてくれ。俺では判断がつかないんだ」


 料理は配られ、食された。

 誰もが呻き、頭を抱え、天を仰ぐ。


 象の民たちの様子を見て、大将は声を張り上げた。


「ふ、ふふ、あはははは、俺たちは鼻が短すぎたのかもしれないな」

「鼻が短い?」

「届かない場所という意味だ。転じて、世界が狭いという意味がある」

「つまり、どういうことだ?」


「俺たちは料理を、美味いと不味いの二元論で語っていた。しかし、この料理はどちらにも属さない料理。摩訶不思議な料理なんだ! 新たな料理の概念、味の概念の誕生だ!!」


 大将は鼻を天へ突き上げ、叫んだ。

 その声に呼応し、象の民たちも鼻を高く掲げ、天へと吠えた。


 彼らは救われた。

 あの味の、いったい何が彼らの心を掴むのか──私には、とうてい理解できなかった。

 けれど、ひとつだけ確かなことがある。

 もう彼らは、飢えに震えることはない。



「今後は餓死者も出ずに済みそうだな」

「ああ。なんとも表現しきれない味。第三の味の誕生。不味くもなく美味くもない。味はあるのに、味がない。俺たちは新たな料理の階段を上がったんだ。このような料理の概念が存在するとは、俺たちもまだまだ修行が足らないってことか」


「味の頂に立ったことのない私にはよくわからないが、君たちに新たな刺激を与えられてよかった」

「ありがとう。俺たちはこれから、新たな味の研究へと踏み出す。美味い不味いを超越した、完全なる味への追及へと」


「うむ、頑張ってくれ」

「いずれ俺たちは、この謎の味を解明し、越えて見せる。その時は、新しい俺たちの料理を食べに来てくれよ」

「もちろんだ」



 私は深く頷き、トイレの扉へと向かう。

 本音を言えば、あの訳のわからぬ味の不可思議料理より、大将のいつもの、あたたかな飯をもう一度味わいたいのだが……。

 けれど、それは今言うべき言葉ではない。

 私はただ、何も告げず、静かにその場を後にした。



 去り際、ふと疑問を覚え、問いかけた。


「大将。魔法の包丁のことだが、食材なら何でも切れるのか?」

「食材ならな」

「何を基準に?」

「包丁を手にした者が、食材と思えば食材だよ」

「そうか……ありがとう」


 私は静かに頷き、扉へと手を伸ばした。

 次なる世界へ――

 そして、待ち受けるあの存在を、自らの意志で『食材』と認識できるかを、(こころ)(うち)で静かに問うのだった。

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