ウイルス
腹部に、鋭くも陰鬱な痛みが走る。
私は一歩進むごとにその疼痛に顔をしかめ、己の腹を両の掌でさすりつつ、歩を緩めねばならなかった。
その内奥には、充満したガスと、忌まわしき『実』が渦巻いている。
せめて、ガス抜きだけでも――だがそれは、あまりに危険な賭けだ。
なぜならば、ガスと信じたものが、容易に『実』へと姿を変え得る。境界はあまりに曖昧。
私は己を律するように、ただ前方を凝視し、ひたすらに歩みを進め続けた。
やがて、私が愛し、信頼してやまぬ聖域――トイレへと辿り着く。
扉に手をかけ、押し開けば、そこにはもはや馴染みとなった異界の光景が広がっていた。
一歩、慎重に足を踏み入れ、周囲を見渡す。
岩塊が無造作に転がる荒涼たる大地。どこまでも澄み切った蒼穹。
湿気を帯びた異界の空気が、頬をなぞるように通り過ぎる。
人影は――ない。
私はそっとベルトを緩め、適当な岩陰に腰を下ろすと、腹に蓄えしもの――ガスと『実』の両方を、大地へと解き放った。
「グアオッ、バスガスバクハツ! ヒョウ~ッ、ジツダンえんしゅっぅうぅううぅううう!!」
……ふっ、大地に豊饒なる実りを捧げてしまったぜ。
門に残る微細なる名残を、天使の羽衣にも似た紙片で丁重に拭い取り、私は静かにズボンを履き直した。
深く、ひとつ息をつく。安堵は刹那、次の瞬間にかき消される――
岩陰より、白一色の防護服に身を包んだ奇妙なる一団が、突如として姿を現したのだ。
「な、なんだお前らはっ!?」
私の叫びなど意に介さぬ様子で、数人の影が一斉に跳びかかってきた。
必死に抗うも、多勢に無勢。瞬く間に私は地に伏せられた。
「貴様ら、放せ! 何のつもりだっ!?」
激しくもがく私の視界の端で、一人の防護服の者が奇妙なパッドを手に、私が捧げし『大地の贈り物』を調査し始める。
「やめろ、何をする。それは役目を終え、大地に還ったのだ。彼らを、うんこを辱めるな!! 痛っ…………」
鋭利なる針が、私の首筋を刺す。
次の瞬間、抗いがたき睡魔が、まるで濃霧のように私を覆い尽くす。
意識は、漆黒の底へと沈んでいった――寝よう。
――目覚めた。
私は寝ぼけ眼をこすりながら、慎重に身を起こす。
目に映るのは、無機質にして冷たき白一色の世界。
壁も天井も、病院とも実験室ともつかぬ、清潔と無感情の白に覆われている。
左壁際には、全身を映す巨大な鏡。右側には、唯一の出口と思しき扉。
薬品の鋭い匂いが鼻をつき、傍らには医療器具が整然と並んでいる。
私は診療台のような無骨なベッドに横たわっていた。
ここは果たして、病室なのか。それとも、人体実験の舞台なのか。
いずれにせよ、今は私一人。
逃れるなら、今しかない――。
私はベッドから足を下ろす。そのとき、体を包む衣の違和感に気づいた。
それは、見慣れた学生服――だが、袖は妙に長く、手がすっぽりと隠れてしまっている。
視線を胸元に落とす。
何かが胸を押し上げ、視界の一部を遮っている。
そっと手を添え、確かめる――柔らかい。
試しに、軽く揉んでみる。
むにゅり、とした感触が掌と胸に広がった。
「ふむ、これは私の胸か。ということは……」
私は診療台から立ち上がり、壁際の鏡に歩み寄る。
「やはり、そうか。私は女になってしまったようだな……うん、美人だ。胸がちょっとでかすぎるが、いい女だ」
鏡の中に佇む私は、紛れもなく女であった。
艶やかな髪、繊細な顎の線、そして豊かすぎる胸元――その姿に私は思わず、見惚れた。
だがそのとき――背後の扉が、静かに開く音が響いた。
現れたのは、白衣をまとう異形の者。
その肌は土の如き黄褐色に染まり、額からは鬼を想わせる二本の突起が生えている。
そして、首元には火傷の痕のような酷いケロイドが広がっていた。
白衣の者は、驚きのあまり声を震わせた。
「え? どうして、もう起きてるの? 薬の効果は半日は効くはずなのに」
「薬? 首元に刺した睡眠薬か。効果の方はどうでもいいが、どうしてそんな真似をした? そして、どうしてこんな真似をした?」
私は両手で自らの胸を掬い上げ、その変化を彼女に突きつけた。
「ごめんなさい。性変化はあなたをウイルスから守るため。防護服の人たちはあなたから健康な遺伝データを得るために……暴力的な行為に出たことは謝罪するわ」
「つまり、ここでは何かの病気が流行っており、そのために私からデータを取り、また病気から身を守るために女に変えたと?」
「ええ、そうよ」
「データの取り方は乱暴だが、理解はできる。しかし、なぜ病気から守るために女にする必要がある?」
白衣をまとった彼女は、苦悩を刻んだような面持ちで口を開いた。
「私たちは現在、致死率100%のウイルスと戦っている。だけど、どうしても薬を開発できない。それでも、研究を進めていくうちに、ウイルスは遺伝情報と一体化することがわかったの。そこで、性を変化させることで、遺伝情報を一新させ、ウイルスを除去することに成功した」
「男を女に変え、女を男に変えることにより、ウイルスを消しているのか。だが、それだと、再感染するのでは?」
「その通りです。だから、何度も性変化をすることでウイルスから逃れている。だけど、ウイルスはずっと背中を追ってくる。絶対に逃れられない」
彼女の視線が、私の胸元に静かに注がれる。その瞳には、憧憬と共に、深い哀切の色があった。
彼女は、自らの胸元を両の手で覆い隠す。
そこにあったのは、真っ平らな胸。静謐なる無。
「君の性別は、女なのか?」
「ええ、女だった。だけど今は、男でも女でもない。薬を使い過ぎたせいで、性の境界があいまいになってしまったの」
「性の境界があいまいに? 待て、それではもう、性変化での一新は?」
「……ええ、遺伝情報が入り交じり、性変化を起こしてもウイルスを除去できなくなっている。私の首元が爛れているでしょう。ウイルスによって、細胞が破壊されているのよ。それに……」
「なんだ?」
「性があいまいであるため、生殖活動が行えなくなっているの。このままではウイルスとは無関係に、私たちは……」
言葉を結ぶ代わりに、彼女は痛ましくも静かな笑みを浮かべた。
その微笑みは諦念に満ちていたが――――まだ、足掻きを終えていない。
「私からとったデータとやらは役に立ちそうか?」
「ええ、とても。汚染されていない遺伝データはとても貴重だから」
「そうか。しかし、どうしてうんこまで調べる必要がある。緊急とはいえ、あのような辱めはたまらなかったぞ」
「ふふ、健康な便の採取は貴重だからね。ごめんなさい」
「健康か? 下痢だぞ」
「だけど、恐ろしいウイルスはいない」
彼女の瞳に、私の姿が映り込んでいる。そこにあるのは、諦念と……嫉妬。
嫉妬がある限り、諦めるという選択は不要だ。
「私は明日の朝には帰らなければならない。だからそれまで、私から好きなだけデータを採取するといい」
「えっ?」
「だから、諦めるな! 君たちはまだもがいているのだろう。必死に抗っているのだろう」
「……ええ。私たちは生き残るためにもがいている、抗っている。諦めている暇なんてないわね!」
彼女の瞳に、ほのかな光が戻ってきた。
それは、いとも容易く吹き消されそうな灯火。肌に触れぬほどの息を吹きかけただけで消え去るもの。
だが、事情を深く知らぬ私にかけてやれる言葉はない。
かくして私は、彼女たちのデータ採取に全面的に協力し、やがて朝を迎えた。
彼女とともに、元来た場所――扉のある地へと向かう。
「うむ、いつもどおりだな」
「目にしても信じられないわね。別の世界につながる扉なんて」
「興味があるのか?」
「もちろん。でも、私たちでは、この扉を越えられない」
「どうしてだ?」
「次元移動は特殊な因子を持つもの以外行えないの。あなたはお腹にそれを宿している」
「私の腹に、そんな力が?」
「まぁ、そのせいで胃腸が弱いんだろうけど」
「生まれつき胃腸が弱いのは、因子とやらのせいだったのか」
「ええ、そうよ。では、帰る前に渡しておくわね。女のままというわけにいかないし」
彼女は数本のガラス製の筒を私に手渡した。
筒の先端には鋭い突起、反対側には作動用のボタンが取り付けられていた。
「性変化の薬か……」
「筒の突起物を首に刺して、ボタンを押すと性が反転するから。あなたから陽性の反応は出てないけど、念のために人と接触する前に使用してね。一応、何かのために多めに出しておくから」
「ああ、わかった」
私は軽く一礼し、扉の向こう――我が世界へと戻るべく、トイレの戸をくぐった。
――いつもの、トイレ。
早速、性別を元に戻そうとするも、心に微かな不安が残る。
私はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、家へと連絡を入れた。
応じたのは、聡明草。
彼は、送話口を小刻みに叩き、モールス信号を送ってくる。
「ああ、お前か。ちょうどよかった、机の引き出しに、ああ、そうだ。学校まで持ってきてくれないか」
十五分ほど待つと、聡明草が蔦を伸ばしてトイレへと姿を現した。
その蔦の上には、美犬さんから譲り受けた万能薬が供物のように慎ましく置かれていた。
薬を口へと放り込みながら、私は思いを巡らす。
「白衣の彼女に必要なのは、この薬なのか……?」