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カーテンの向こう側

 漏れる! トイレの扉、バーン! はい、便器がない!


 私は己が呼気さえも掻き消されるほどの切迫を抱えつつ、周囲を一瞥した。

 眼前に広がるのは、荘厳な装飾に彩られた古き洋館の広間。

 天井から垂れ下がる燭台は微光を宿し、時代の風雪を潜り抜けた調度品たちは今もなお凛とした佇まいを保っている。

 全体として古びた気配を纏いながらも、空間はどこまでも清潔であり、整然としていた。

 


「くはぁっ!」


 腹底を揺るがす震動が、雷鳴の如く腸内を(はし)った。

 この狭き器官の奥に、かくも凶悪な奔騰(ほんとう)が潜んでいようとは。猶予という言葉は、もはや過去のもの。

 足元に広がる、見るからに高価そうな絨毯の尊厳を損なう前に、然るべき場所を見出さねばならない。



――トイレはどこだ!?


 左右へ伸びる廊下と、正面に続くゆるやかな階段。

 されど、階段を登るという行為は、下方の緊張をより刺激しかねない。却下だ。

 選択肢は、右か左か。


 私は出口の皺と皺を合わせ、いわば皺合わせを行いつつ熟考する。

 その時、右手の廊下より、キコキコと小気味よい車輪の回転音が届いてきた。

 やがて姿を現したのは、気品を纏いし老婦人。

 彼女は車椅子に腰掛け、その背後には、古風なメイド装束を纏った若き女性の姿があった。



「あら、あなたは……私の幻覚かしら?」

「お館様。この男は現実です。事象変異が起きた形跡があります」

「まぁ、奇跡とは唐突に起きるものね」


 この言葉の応酬は、端から見れば奇怪の一言であろう。

 だが、そんなことは今の私にとって些事に過ぎない。


――トイレだ。

 切実なる生理の声が、私の全存在を駆り立てる。


「悪いが、事情を説明する前に、トイレを貸してもらえないか。我が門、堅牢なりとも、未曽有の災害の前に屈しそうなのだ!」

「それは大変ですね。彼をお手洗いまで案内してあげて」

「かしこまりました、お館様。では、お客様。こちらへどうぞ」



 かくして、私はメイドに導かれ、館の内部を進み、至高の目的地へと到達した。


「ありがとう。君は下がっていろ。危険だ!」

「問題ありません。私は――」

「何を言う! 親切な君を穢すわけにはいかないっ! いいから早く離れるんだ!!」

「わかりました。そこまで仰られるのならば」



 メイドは私の熱き言葉を受け止め、優雅に一礼すると、その場を静かに後にした。


 私は一歩、いや、二歩も三歩も飛び込むようにトイレに駆け込むと、臨界に達していた門を、文字通り盛大に開放した。



「はおぉ~、カッ! ジャジャジャーン! ジャッジャッジャジャーン! ジャン!」


 フッ、洋館に相応しいクラシカルな旋律を、この身ひとつで奏でてみせたぜ。


 長きに渡る苦悶より解き放たれた私は、自然と背筋が正され、気高きモデルのような歩幅でトイレを後にした。

 廊下の向こうより、再びメイドが音もなく近づいてくる。


「ご無事で何よりです」

「ああ、死を感じさせる痛みだったが、この通りだ」

「左様でございますか」


 彼女は私をまっすぐに見つめる。その瞳の奥では、キュイキュイと精密機械の音が微かに響く。

 私はその瞳を覗き込み、異なる構造を察する。

 どうやら、彼女の目には小型のカメラが仕込まれているようだ。



「君は、ロボットか?」

「はい、お館様の世話をするために作られたヒューマノイド型支援オートマトンです」

「お館様というのは、先程のご婦人か。彼女は人間なのか?」

「はい」


「他には誰か?」

「おりません。お話の途中失礼ですが、お館様があなたと話をしたいと仰せです。一緒に来ていただきますか?」

「ああ、もちろんだ。こちらも勝手に館へ侵入してしまった詫びと、トイレを貸してもらった礼をしなければならないからな」


 


 私は彼女に導かれ、再び館の内部を進む。

 不思議なことに、通るすべての窓は厚いカーテンで閉ざされ、外界の気配は徹底的に遮断されていた。


 案内され、到着した部屋には、天蓋付きの豪奢なベッドが据えられており、その上に老婦人は静かに身を横たえていた。


「ようこそ、異星のお方」

「ああ、どうも。勝手に館に侵入したばかりではなく、トイレまで貸していただき、礼と詫び、何とすればいいのか」

「いえいえ、構いませんよ。驚きましたが、この驚きはとても新鮮でした」

「新鮮?」


「よろしければ、あなたの星の話をしていただきませんか? お時間があればですが」

「時間なら、明日までは。明日には、広間に扉が現れ、帰ることができます。それまででよろしければ、私の星の話をしましょう」



 私は地球のことを語り続けた。

 老婦人は時に微笑み、時に目を潤ませながら、ひとつひとつの言葉を慈しむように耳にしていた。

 傍らでは、メイドが一言も発せぬまま、忠実なる影のごとく佇んでいる。


 語りを終える頃には、老婦人の顔に疲労の色が浮かんでいた。

 私は深く頭を垂れ、彼女の静かな横顔に別れを告げる。

 老婦人は寝所としての部屋を用意してくれると申し出、メイドに案内を命じた。


 二階に設えられた部屋へ向かう道すがらも、やはり窓という窓はすべて厚いカーテンに覆われていた。

 部屋に到着すると、メイドは一礼して立ち去り、私は扉を閉じる。

 それと同時に、照明が自動的に点灯し、室内が淡く照らされた。


 私は静かに歩を進め、窓のカーテンに手をかける。

 ピラリとめくったその先――


「こ、これは……」


 目の前に広がるのは、地平線の彼方まで一片の緑も存在せぬ、荒涼たる大地。

 空は鉛色の雲に覆われ、雲間(くもま)には幾筋もの稲光が、沈黙の中に咆哮を轟かせている。


 終焉を迎えた世界。

 その絶望の光景が、私の瞳に焼き付いた。


 ふと視線を下ろすと、館の庭には銀色に輝く飛行機のような構造物があった。


「なんだ、この世界は……まぁいい、寝るか」


 考えたところで答えは出ぬ。明日、二人に尋ねればよいのだ。おやすみなさい。




 翌朝、柔らかな衣擦(きぬず)れの音とともにメイドが私の枕元に現れ、静やかに目覚めを促した。私は身を起こし、寝台脇の窓より外を眺めやった。

 そこに広がっていたのは、かつて生命の営みがあったとは信じがたいほどに荒涼とした風景。

 そして庭先には、飛行機のごとき奇妙な機械が沈黙を共に休んでいた。



 その物体について問うと、彼女はまるで時間の止まった空間を慎ましく破るように口を開き、哀調を帯びた声音で、次のように語った。


「この星は、滅んでしまいました。皆さんは別の星へ移住したのですが、お館様は一人、ここへ残りました。そして、世話係として私をお創りになられたのです」

「では、あの飛行機は宇宙船か?」

「はい」


「脱出する手段があるのに、どうして彼女は残る?」

「お館様は残された僅かな命を、故郷と共にありたいと。ですが、何もない時間をずっとお一人では……」

「そういうことか」



 人々がすべてを置き去りにして去っていったあとも、ひとり留まり続けた老女――。

 彼女は、時の流れに取り残され、終わりなき孤独の淵に立ちながら、その淋しさを癒やすため、己が手によって人の形を模した存在を造り上げた。


 初対面の私を幻と見まごうたのも、長き孤独ゆえ心に生じた(かげ)りによるものだったのだろう。

 地球の話を聞きたがったその理由も、滅びし故郷への追慕であったのか、それともただ人の温もりを慕うがゆえだったのか――それは、私には知る由もなかった。



 私はメイドの案内に従い、ふたたび重厚な柱と天蓋に囲まれた広間へと足を踏み入れた。

 そこでは、ご婦人が威厳と静謐を伴った車椅子に腰掛け、例の奇妙なトイレの扉の前で私の到着を待っていた。


「ふふ、不思議ですね。私の家にこんな不思議な扉が」

「そいつの存在は私にも謎でして。いつもいつも、妙なところに飛ばされる」

「あら、ごめんなさいね、妙なところで」

「あ、これは失敬。失言でした」

「ふふふ、冗談よ。昨日は久しぶりに楽しかったわ。よろしければ、これを貰って下さらない」



 そう言って、ご婦人は膝に置いていた一枚の透明なガラス板を、両手でそっと差し出した。


「これは?」

「あなたから聞いた地球の話は、私たちが歩んできた星の歴史に酷似していた。もしかしたら、あなたたちの星も同じように……不愉快かもしれないけど、その時が訪れた時のために、星を渡る船の作り方をまとめておきました」


「そうですか。ありがたくいただいておきます。ですが、私たちは星を滅ぼさぬように歩み続けてみせますよ」

「ええ、私も心からそう願っているわ」



   

 私は、不幸な歴史を凝縮したこの英知の結晶を、慎重に脇に抱えた。

 そして、名残惜しさを奥深く心のうちに沈め、ご婦人とメイドに深く礼を述べ、地球へと通じるトイレの扉をくぐった。


 再び己が世界に戻った私は、ガラス板の滑らかな表面をそっと撫でた。

 たちまち、板には幾重にも絡み合った数式が浮かび上がり、続いて、優雅な曲線を描く宇宙船のホログラムが、淡く光を放ちながら姿を現す。


「こんなものが必要になる事態は避けたいな。その時が来ないことを祈りつつ、保管しておこう」

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