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はじまりの草原

「は、腹が……」


 突如として腹部に奔流(ほんりゅう)する、不穏なる蠢動(しゅんどう)

 それは容赦なく内臓を責め立て、時の猶予を一刻一刻と削り取っていく。

 私は眉根(まゆね)を寄せ、唇をかみしめながら、学校の廊下を歩む。

 腹部に衝撃を与えぬよう細心の注意を払いながら、男子トイレの扉へと手を伸ばす。


 扉は鈍い軋みを上げつつ開かれ、私は救いを求めて、その内へと身を投じた──はずであった。


 だが、眼前に広がっていたのは、白磁の便器でもなければ、無機質なタイル張りの床でもなかった。


 そこには、尽きることなき緑野(りょくや)が横たわっていた。


 青き地は瑞々しく波打ち、柔らかな風に揺れる草々がさざめきながら、大地を染める。

 黄金に煌めく太陽が空に高く、燦然(さんぜん)と輝き、その恩寵(おんちょう)を惜しげもなく注いでいた。



 しかし、私はその荘厳な美景(びけい)に心を奪われる余裕などなかった。

 何よりも先に為すべきは、この腹の災厄の沈静である。


 辺りを見渡し、目についた茂みへと駆け込んだ。足元を確かめつつ腰を落とし、やがて、静寂を切り裂いて、私の魂の慟哭が天地に響いた。


「うおぉぉぉぉお、ふぅ~。うおうぉ、うおぉぉぉぉぉぉ~!! うおぅ、おふ~」


 ふっ、危うく、この勢いで大地を穿つところであった。



 全身の力を解き放ち、深く安堵の息を漏らす。

 だが、そこに安息はなかった。次なる問題が、私を待ち受けていたのである。


 紙が、ない。


 ポケットを探れども、指先は虚無に触れるばかり。震える手で葉を見やれば、風に揺れる緑が、無邪気に微笑み返してくる。


 しかし、私は安易にそれを手に取ることができなかった。

 毒草の可能性を否定できぬ以上、それを肌に触れさせることは即ち破滅を意味する。生ある者として、自らの手で滅びを招くわけにはいかぬ。


 尊厳と機能を秤にかけ、我がパンツを切り捨てるほかに、道は残されていなかった。


 だが、考えるまでもなく、それは選択肢とは呼べなかった。残り三時限、己の尊厳を失ったまま過ごすなど、到底人間として耐えうるものではない。


「クッ、どうする、私?」


 苦渋に満ちた思索の只中、ふと耳に届いた微かな音があった。


──せせらぎの音。


 私は顔を上げた。


「川……?」


 音の方へと目をやると、そこには、清らかなる細流(さいりゅう)が流れていた。

 透明な水が陽光に照らされてきらめき、小石が水底(みなそこ)に揺れ、風がその表面をやさしく撫でてゆく。まさに、天の与えし救いの場。


「ウォ、ウ〇シュレットだ~!!」


 歓喜の声を放ちながら、川辺へと慎重に足を進める。だが、ほどなく気づく。ズボンが、邪魔なのだ。


 ならば──要らぬ。


 私はためらいなく、ズボンと下着を脱ぎ捨てた。その瞬間、風が全身を包み込む。束縛より解き放たれし我が身の一部が、まるで自由を謳歌するかのように躍動した。


 裸身(らしん)のまま川縁にしゃがみ、掌を水へ差し入れる。冷ややかな清水が肌を伝い、やがて敏感な箇所に触れる。



──至福、ここに極まれり。


「ふぅ……全てが終わった……」


 すべての穢れを洗い流したその瞬間、私は透徹(とうてつ)した悟りの境地に至ったかのようであった。

 だが、またしても困難が立ちはだかる。


「……濡れていて気持ちが悪い」


 このままでは、水滴が肌に張り付き、かえって不快感を増すばかり。視線を彷徨わせると、日差しに照らされた岩が一つ、静かに佇んでいた。


 意を決し、その岩に登り、うつ伏せに身を()す。

 天に向かって尻を掲げ、太陽の恩寵(おんちょう)を受ける。


 暖かな光が肌に沁みわたり、風がそっと撫でてゆく。そのたびに心はほどけ、魂すらも安らぐようであった。


 何という、崇高なる解放感。


 恍惚のうちに意識が霞みゆき、私は微睡みへと誘われた。


──しかし、微かな違和感が胸中をよぎる。


 この草原も、川も、風も──すべてがあまりに整いすぎている。

 風は均一に吹き、草は機械のように揺れる。生命の鼓動が感じられない。

 それはまるで、神の筆が息を呑む静寂の中に描き遺した、永遠に凍結された絵画の一隅のようであった。


 それでも、陽の光だけは確かであった。

 その温もりに包まれ、私はいつしか深い眠りへと堕ちていた。



――――――


「……なに、夜だと!?」


 目を覚ませば、夜空には満月が浮かび、冷気が大地を包んでいた。

 私は慌てて身を起こし、学生服を身につけ、元来たはずの扉を探す。


 だが──扉は、どこにもなかった。


「……仕方ない、明日になったら考えよう」


 草の上に身を横たえ、私は夜の静寂の中へと再び沈んでいった。



――――――


 夜は明け、陽が昇る。

 まどろみの果てに眼を開けば、そこには、昨日は存在しなかったはずの扉があった。


「戻れるのか……?」


 半ば疑念を抱きながら、扉の取っ手を握り、私は駆け込んだ。

 そこにあったのは、見慣れた学校のトイレ。



 夢──であったのだろうか?


 ふと、ズボンに目をやれば、そこにひとつの種子が付着していた。吸盤のような突起を備えた、見知らぬ植物の種。


「何の種だ……? 家に持ち帰り、植えてみるか」


 私はそれを持ち帰り、自室の植木鉢へとそっと埋めた。



 すると、瞬く間に部屋は緑の海に呑まれた。

 四方を埋め尽くす蔦、葉、芽吹き。それらの襲撃に対し、私は言葉をもって交渉を試みた。


 驚くべきことに、彼らは理知を有していた。

 結果、私の部屋のみを生息地とすることで、平和的共存の道が開かれたのである。


 かくして、私の生活には新たなる彩りが添えられた。


 ──めでたし、めでたし。

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