呼び覚まされるもの
無いなら、書けばいい。
宮崎県延岡市。
午後五時半。工場の終業ベルを前に、機械の唸りが止まった。
「またか……」
佐伯誠、36歳。精密加工会社の社員として、単調な日々を送る男だ。
現場主任の声に機械を止めると、同僚たちは一様にスマホを覗き込み、低く騒いでいた。
「感染症だとよ。噛まれて狂ったように人を襲うって」
「映画じゃねぇんだからさ……」と誰かが笑った。
だが誠だけは、画面の中で飛びかかる“それ”を見て無言だった。
明らかに訓練された警官を、一瞬で押し倒す動き。倒れた人間の血を喰らう姿。その動きに、彼は既視感を覚えていた。
工場の更衣室で、誠は鍵付きロッカーを開ける。中には、古びたミリタリーバッグ。昔、上司から受け取った温情の一部。
それを開いた瞬間、腹の底に沈んでいた“何か”が目を覚ます。
「……………」
スマホを手に取る。画面には、唯一の定期連絡相手――遥からのメッセージが表示されていた。
『誠さん、テレビ見て。これ、本当にヤバい。病院でも何人か……』
彼女は市内の病院勤務の看護師だ。誠の過去を詳しくは知らないが、それでも“何かあった時”には連絡をくれるようになっていた。
誠は即座に返信した。
『今どこだ? 病院にいるなら、すぐ離れろ』
既読にはならない。既にネット回線も混乱しているのだろう。
彼は作業服を脱ぎ捨て、靴の紐を締める。背中に背負ったバッグの重みが、過去を連れ戻す。
『狩る者』としての自分。
かつては正義の名の下に、夜の任務で無数の“敵”を消し去った。
今また、自分にその役割が戻ってきたのだと、誠は静かに理解した。
「仲間を守り、敵を狩る――それだけでいい」
外では、遠くの住宅地から、獣のような叫びが響いていた。