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小説・エッセイ

高度経済成長小学校

作者: らいどん

 まるでフィクションのように思える、今とは別世界の出来事のような、高度経済成長期下の小学校の思い出です。

 本来は日記に追加するエッセイ的な内容ですが、「春のチャレンジ2025」のテーマがたまたま「学校」だというので、こんな話でいいのかなとためらいつつも、別立てにして参加。

 時効ですから。



 娘が通った、まるで外見は美術館のようなビルディングで、内部には人間工学的な設計配慮が感じられるたたずまいの教室が並び、ビュッフェ給食のできる部屋があり、中庭にビオトープの池があって、電力は太陽光発電でまかなわれ、プールは屋上に設置されている……それがなんと()()小学校、だというのだから……。

 自分の経験した小学校というものとは、あまりにもかけ離れている。


 私が通った小学校は、当時、西日本一の規模だといわれた巨大な団地のなかにあって、周囲の団地と変わらないような、没個性きわまりないコンクリート製だった。

 高度経済成長期のラストスパート、日本列島改造の真っ只中という特殊な時代背景に加えて、まるで日本中の労働者がそこを目指して殺到するかのような、爆発的な人口増加を遂げつつある工業都市だったから、男たちはかつてない勢いで生活水準を引き上げるための勤労に邁進して、仕事帰りは酒場の床を煙草の吸い殻で埋めつくし、休日は馬券を握りしめることに熱中するばかりで、地域社会は今よりもずっと、子供のことなどに構っていられなかった。

 もしかしたら構っていられないことにかけては、戦時中や終戦直後も含めた、それ以前よりもずっとずっと、特筆すべき子供放置の時代、および地域環境だったのかもしれない。


 移住者流入の勢いに新しい小学校の増設はとうてい追いつけず、古い校舎の学校に一クラス五十人ほどが詰めこまれていた。クラスは多い学年で、一学年二十四クラスあった。全校児童はピーク時には五千人くらいいたのかな。

 当然、教室が不足して、校庭には仮設のプレハブがすし詰めで設置され続けていた。自分は幸いにも免れたけれど、運の悪いクラスはプレハブ教室に通っていた。

 どこの教室にも暖冷房などという気の利いたものはなかったから、真夏や真冬のプレハブ教室は、地獄のような環境だったろう。


 大雑把に一クラス五十人ほどと書いたけれど、ある時の四十八人という数字を覚えている。入れ替わりが激しくて、ほぼ毎日のように転校する子供、転校してくる子供がいたので、安定していなかった。

 日々棟数が増殖する団地は巨大企業のベッドタウンであって、優秀な人材も、流れ者の労働者も集まったのだろうし、隣町は廃坑の町であり、もともとの周囲には米軍駐留地、自衛隊、刑務所、競馬場、被差別部落、朝鮮人学校などがあって、私立の学校などという受け皿もないから、エリートの子もいればやくざの子もいる、まさにごった煮のありさまだった。

 教師もたまったものではなかったろうな。

 担任だった若い女の先生は、授業中に子供たちの目の前でヒステリーを発症して、しばらく学校を休むことになった。


 そんな小学校にちょっと郊外にあたるような土地から、毎日、四、五十分ほどを歩いて登校していたのだから、登校途中には旧世界と新興世界との激しい落差を目の当たりにするような、今では信じられない光景もたくさん見ている。


 通学路にしていた道には、よく穴があいていた。

 掘削工事をして、なんの警告も表示せずにほったらかしているのだけれど、いたるところそんなありさまだったので、それも普通のことだった。自動車が逆さまになって穴に落ちているのを見たこともある。それくらい大きな穴もあいていた。

 友達といっしょに、水溜まりをバシャッと踏みながら、学校帰りの道を遊び歩いて帰っていた。どちらが先に水しぶきを飛ばすかという競争のようになって、前へ前へと水溜まりに突進していたのだけれど、先に行った友達の姿が、不意に消えてしまった。今まで目の前にいた人間が、瞬きをする間にフッと消失したのだった。

 数秒後、水溜まりの表面に、友達がかぶっていた帽子がポカンと浮いてきた。

 なんと、友達が飛びこんだ水溜まりは子供の背丈を優に超える深さがあって、その子は一直線に沈んでしまったのだった。

 まもなくずぶ濡れで這い上がってきた友達と大笑いしながら、そのまま家路に就いたという、それだけの話なのだけれど。その程度のことをあれこれ言うほど、世間はヒマではなかった。


 ほったらかしといえば、当時は整地現場の重機なんかは、キーを付けっぱなしにしてよく放置されていた。周囲に人気がない現場に子供同士で忍びこんで、ブルドーザーとかパワーショベルとか、エンジンをかけて動かしていた。

 危なっかしい話だけれど、そういう何をしてもいい環境に置かれると逆に自制心が働いて、取り返しのつかないことまではしないものである。作業員に見つかって、追いかけられたこともあった。

 現場にドラム缶の焚火が燃えたまま放置されていて、その火を周囲の枯れ草につけて燃やして遊んだのだけれど、そんな些細なことで怒られはしない。どうせ山ごとぶっとばすのだから。


 新興住宅地に隣接した山々は常に開発中で、ダイナマイトで岩を破壊していたから、町にはいつもダイナマイトの爆発音が轟いていた。

 荒々しく破壊されて作業員が引き上げたあとの開発現場は、子供たちの恰好の遊び場になった。

 爆破で穿(うが)たれた洞窟のような穴や、鉄砲水が(えぐ)った深い溝を基地や塹壕にみたてて、いつも戦争ごっこをしていた。泥団子の弾丸を投げあって戦闘をするのだけれど、武器の威力を高めるために泥団子に石を混ぜるような馬鹿もいて、頭に当たった子が血だらけになったものだった。

 ときには探検と称して、崩れかけの崖をよじ登って、まだ破壊されていない山中に進入することもあった。崖から露出した岩や木の根を手がかり、足がかりにして、気を許せばボロボロと崩れていく垂直に近い斜面をしがみつくようにして登りながら、ここで体勢を崩したら死ぬと思ったことも何度かあった。でも実際に死んだ子はいなかったので、自分たちでヒロイックにそう感じるほど危なくはなかったのかもしれない。


 そんな遊びが普段だったから、男の子たちの流行りもすさんでいて、五円玉や十円玉で刀を作ることにやっきになったこともあった。

 線路に硬貨を置いて、汽車(その頃は蒸気機関車)が通り過ぎるのを待って拾いに行くのだけれど、車体の重みで硬貨が潰されてビヨーンと伸びて、刀のようになる。その形状のかっこよさを競いあうのである。

 立派な貨幣損傷等取締法違反ですよね。

 この遊びは、一部の過激派がエスカレートして、だんだんと線路に置くものが巨大化して、ついに汽車を停車させることになった。

 自衛隊の演習場に鉄条網の破れ目から潜りこんで、銃の薬莢(やっきょう)を拾ってくるという肝試し的な遊びも流行ったなあ。たくさん集めた子はポケットから薬莢をじゃらじゃらと取り出して小学校の机の上にならべては、鼻高々なのだった。


 思い出せば次々と、思い出すことばかりなのだけれど……。

 ある日、泥だらけになって遊んでいた、無惨に破壊され尽くされた荒野が、毒々しいほどに真っ赤な夕焼けに照らされたことがあった。

 赤土だらけ、岩肌だらけの、ダイナマイトで砕かれて、ブルドーザーでならされたばかりの、切り開いた獣肉のような地面には、工事の隙間を縫って、驚くほどの繁殖力で伸びたセイタカアワダチソウがところどころに叢をなしていた。

 まさに殺風景な、その風景のすべてが真っ赤に染まっていて、地平線に落ちる大きな太陽の斜光を浴びて、そこにいる自分自身を含めた子供たちも、目のなかまで真っ赤なのだった。

 そのときふと、この景色を死ぬまで覚えていようと思った。大人になるというのがどういうことなのかはさっぱりわからないけれど、覚えていられる限り覚えている理由がありそうな気がした。

 今でもちゃんと、その風景を覚えている。

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― 新着の感想 ―
らいどんさんの小学校の思い出を、自分の小学校時代と重ねながら、懐かしく読ませていただきました。 私の場合はらいどんさんよりももう少し前で、書かれているようなマンモス規模ではなく、比較的落ち着いていた印…
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