海に泳ぐ
夢をみている。
どこまでも広い海原を彷徨いながら、空を見上げて水面に浮かんでいる夢。
目的はなく行く場所もなくて、ただ波にまかせて浮かんでいるだけのたったひとつの遺伝子。
そのうちに原始の遺伝子は考える。増殖しようと思う。ひとつではあまりにも淋しすぎるから。
密度の濃い海水と、熱い太陽。
どこまでも続いていく混沌とした空。
それは、世界の果ての光景。
✧✧✧
就職するまでの私について、特に語るべきことはない。大概のことは忘れてしまったし、忘れても問題にならない程度のことばかりだからだ。
適当な高校へ進学して、適当な大学へと進んだ。高校を卒業するまでも大学生になってからも平凡な生活を送った。要するに私はそこら中に転がっている、ごく普通の一般的な女の子だった。
同年代の女の子たちに起るような出来事は私にも起こったし、私が経験することは彼女たちも経験した。私は特別な主人公ではなかった。
唯一の違いがあるとすれば、それは私がそのことを知っていたということだけだろう。
今はアルバイトをして生活をしている。
アルバイト先は伯父の経営する生花店だ。
「そんな会社にしがみつくことないわ。心を壊してまでしなければならない仕事なんて、この世界には必要ないのよ」
そう言って私を雇ってくれた。
伯父はそういう話し方をする、そういう人だ。物心がついたときからそうだったために、特に違和感もなにも覚えない。
仕事は主に雑用と経理関係を受け持った。
雑用はお茶汲み、洗い物、掃除、洗濯など。
旧い建物が並び、時代から取り残されたようなうらぶれた雰囲気の漂う裏の繁華街。その通りの入り口にある小さな生花店は、店舗兼伯父の住まいだった。つまり雑用というのは伯父の家の家事だ。
店の経理はパソコンに収支を項目別に入力していく。領収書や伝票の管理、従業員の給料の計算、振り込み、雇用保険や税金の書類などの手続きをしていた。さすがに決算書までは素人の手には負えずに、税理士事務所に頼んでいた。
生花店の従業員は二人。
ほっそりとした背の高いやよいさんは、腰までの黒髪をいつでもきちんと簪で結い上げていた。もう一人の小雪さんはおっとりとしていて、人懐こい笑顔をする人だった。とても品の良い綺麗な雰囲気を持つ人たちだ。
やよいさんは四十歳を少し過ぎたところで、小雪さんは三十歳手前だった。
やよいさんと小雪さんはとても仲が良くて、私に対しても親切にしてくれた。
花束のアレンジメントなどを、やよいさんか小雪さんのどちらかが手すきの時間に教わった。
生花店は夜をメインに営業している。
店を開けるのは夕方の五時から。閉店は深夜十一時。閉店時間は花束やスタンドの予約の入り方次第で多少は前後する。夜の店の嬢に贈る客や店への納品が主なためだ。
伯父は配達や花き市場への仕入れを担っている。スタンドやアレンジメントなども手掛けていて、店先へはほとんど出ない。
やよいさんと小雪さんの二人でも忙しいときや、どちらかが休みのときには私も店先に立ち、接客とレジを担当している。さすがに万年研修中とも云えるこの不器用な腕では、まだまだお客さんに売る花束は作れないでいるが。
✧✧✧
「いらっしゃいませ」
夕方と夜が交じり合って入れ替わる時間。
夏の時期ならまだ空は明るいが、秋の初めのこの季節はもう陽は落ちている。空は黄昏て、道行く人は濃い影に溶けていく。
店内に入ってきたお客さんは、最近よく花束を買っていく仕事帰りのサラリーマン風の青年だった。
「今日はいかがいたしますか?」
「あの、ええと、五千円くらいまでで。明るい感じでお願いできますか?」
振り返って小雪さんに確認する。彼女はにこりと肯いた。
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
青年は肯くと狭い店内に飾られている花を、もの珍しそうにきょろきょろと見回している。
「普ちゃん、ちょっと」
小雪さんに手招きで呼ばれた。小声で耳打ちされる。
「花束の予約が入っているから、ちょっと時間をもらうようになるの。お客さんに説明してきてくれる?」
「はい」
青年はレジに背を向けて、入り口の花を中腰で眺めていた。
「あの、お客様?」
「はい!」
突然に声をかけられて驚いたのか、びくりと青年の肩が跳ねる。
「申し訳ございませんが、花束のご予約がいくつか入っておりまして、少々お待ちいただいてもよろしいですか?」
「あ、はい。構いません。あ、えと、どれくらいですか?」
後ろを振り返ると作業台の前で小雪さんが人差し指、中指、薬指の三本を立てていた。
「そうですね。だいたい三十分くらいかと」
「三十分……」
青年は呟いた。どうやって暇をつぶすか考えているようだ。三十分といえば長くはないかもしれないが短い時間ではない。動画やアニメなどなら一本は観ることができる。
所在無さげに店の中に立っているだけなのは苦痛だろう。店の外で待つにしても、この辺りは夜の店が立ち並ぶ裏通りの入り口にある。ファストフードや喫茶店、カフェなどはない。
「あの……よかったらですけど、椅子をお持ちしますのでコーヒーでもいかがですか?」
「え……」
青年は私の提案に驚いた様子だった。
「あ、いえ、ここに立っているのも疲れちゃうかなと思いまして。あの、よろしければですが……」
私は慌てて言い添えた。
つい口に出してしまったが、なんだかこうやって驚かれると、逆ナンパをして断られたような気まずさが残る。
下を向いて「ああ、余計なことを言わなければよかった」などと考えていると、男性は「あ、ありがとうございます。いただきます」と丁寧にお辞儀をした。
「ずうずうしく、すみません」
「いいえ、こちらこそお待たせしてしまって」
折り畳みの椅子を出して、コーヒーを淹れたカップを載せたトレーを渡す。ミルクと砂糖はお好みだ。
青年はトレーを膝の上に置いた。
「インスタントですみません。テーブルも出せなくて……」
狭い店内にはテーブルを置く場所はなかった。
「いや、大丈夫です。外が寒かったものですから温まります」
青年はコートを着ていなかった。
今日は天気予報が外れたようだ。暖気が入るから暖かくなると、朝の情報番組で聞いたような気がする。
「天気予報が外れちゃいましたね」
気象衛星が活躍する現在では、予報は外れるほうが珍しい。
しばらくは世間話などをしていたが、花束を取りにきた予約客の会計などをしているうちに男性の注文した花束が仕上がった。
「ありがとうございます」
嬉々とした表情を浮かべて風船葛とピンク色の薔薇の花束を抱えて店を出て行った。
あの花束はこれから訪れる店の嬢に渡るのだろう。
人の好さそうな青年の笑顔を思い浮かべて、少し複雑な気持ちになった。
✧✧✧
いつの間にか季節は本格的な冬が訪れて、年が明けた。
五千円の花束の青年は店に姿を見せなくなっていた。
母からは最近になってよく電話がかかってくる。話の趣旨はいつも同じ。「もういいでしょう。こっちに戻ってきなさい」
大学を卒業後に就職した会社は、所謂ブラック企業だった。人間関係も悪く、次から次へと人が入れ替わる。そのために経験のある人材が常に不足していた。休みも取れずに早出と残業を繰り返し強制されて、二年と経たずに精神的に追い詰められた。そして身体を壊して退職をすることになった。
店を構えていた伯父にアルバイトとして雇ってもらったのは、それからのことだ。
「ほら、あのこ。小学校のときによく遊んでた……。名前なんだっけ?」と、スマートフォンの向こうで母は言う。
「えみちゃん?」
「そうそう。えみちゃん。お母さんこの前ね、たけ君のお母さんから聞いたんだけど、えみちゃんね、結婚したんだって」
「ふうん」
今回はえみちゃん。前回はかなえちゃん。その前は誰だったっけ?
「そんな他人事みたいに」
母はため息をつきながら続ける。
「あなたもそろそろいい歳なんだから。付き合ってる人はいないんでしょ? だったらこっちに帰ってきてお見合いでもしなさいよ。いつまでもそっちにいても仕方ないでしょ?」
「帰らないよ」
「そんなこと言って。兄さんにヘンな影響を受ける前に帰ってきなさい」
保守的な考えをする母は、伯父のことをあまりよくは思っていない。令和の世の中は多様性だのを掲げているのに、母はいつまでも「結婚は幸福の最終形態」だと思っている。
娘を心配してくれる気持ちは解る。この先の未来に独りで生活していくよりも、パートナーを持ち、お互いに支えあって生きる選択をする方が母も安心するのだろう。だけど、それは母の幸福と安心の基準だ。
いつまでも私のことを小さな子どもだと思っている。もう、ミルクを欲しがって泣くだけの子どもではないのに。欲しいものは自分で選ぶことができるというのに。
「もう切るね」
向こう側では母のなにかの小言が聞こえたが、そのまま電話を切った。
私が欲しいものはね、もうミルクじゃないんだよ。
✧✧✧
生花店は月曜日が休みとなる。
読みたい本があったので、午後から電車に揺られた。久しぶりに書店へと出かけ、その道すがらに、ぶらぶらと街を歩きながらウィンドウショッピングを楽しんだ。もう春物の服が並び始めている。近いうちに冬物の最終セールも始まるだろう。
書店では目当ての本を買った。それから近くにある小さな水族館へと向かう。
平日の夕方近くの水族館は空いている。ましてや今日は月曜日だ。館内には、日曜日の家族サービスやカップルや友人同士で訪れた、喧騒の名残の気配だけがうっすらと漂っているだけ。閉館も近い。ほとんど人気はなかった。
壁に埋め込まれた長方形の水槽があるフロアには、その水槽の前にベンチがある。水槽に展示されているのは海月だ。
フロアの壁は青味がかった紫色に塗られていた。照明は薄暗い。その代わりに水槽の中には、水の底に設置された照明から、上方へとやわらかな光が射すように設計されていた。
水槽の中は海だ。
現実の海ではなくて、幻想的な海。
透明な海月たちは、ふわふわゆらゆらと空を飛ぶように、優雅に揺蕩いながら、壁の色を光の粒で反射させた青紫色の海に浮かぶ。
水の流れに身を任せ、ときには自由に気ままなように、傘を開閉させたり触手をあちこちへ伸ばしたりしている。
水槽の前のベンチに座った。
外で買ってきた暖かな飲み物に口をつける。濃いココアの甘さは渇いた舌の上に広がり、喉の奥に流れ込んでいく。
フロアも海の中だ。
海月たちを眺めながら、私は進化を遡行する。意識は原始の時代にまで遡る。身体をするりと脱け出すと、海月と一緒にフロアの海をゆらりと漂う。
ここでなら楽に呼吸ができるような気がしていた。いつもの息苦しさも、喉のつかえも感じない。陸に上がっても故郷の海を懐かしく思い、還ってきた生物のようだ。
遥か昔に原始の海で誕生した生命は、やがて陸へと進出した。それは進化の必然的な過程だったのだろうか。一部の変異した遺伝子は、冒険を求めて陸へ上がれと命じたのだろうか。大地を踏みしめて歩く足を手に入れてからは、己の生命を育んだ母なる海を忘れてしまったのだろうか。
いや、もしかすると忘れたかったのかもしれない。離れたかったのかもしれない。身体を包む温かな海水から抜け出したかったのかもしれない。包まれて護られることに窮屈を感じて、干渉のない新しい世界へと飛び出したかったのかもしれない。自由になるために。
どれくらいの時間を、そんなことをぼんやりと考えながら水槽を眺めていたのか。
ふと気がつく。
いつの間にかベンチの反対側の端には、スーツ姿の男性が座っていた。
海の波の間を揺れる光に照らされたのは、少しうつむきがちな見覚えのある横顔。花屋に五千円の花束を求めにやって来ていたあの彼だった。
「……あ」
思わず声が漏れてしまうと、彼はふと顔を上げて私を見た。
「あ……」
彼からも同じ音がこぼれた。
どちらともなく軽い会釈を交わす。
「偶然ですね」
「はい」
彼は頭の後ろに手をやり、閥が悪そうに笑う。
館内にはすでに、閉館時間を告げるためのオルゴールの音色が流れていることに気がついた。聞き馴れた曲だったが、タイトルは知らない。
オルゴールの音だけが深海に降るマリンスノーのように積もっている。
スマートフォンの時計を確認する。仄暗さに慣れた目には、人工的な明るさが眩しく目に痛い。
「もう……こんな時間になっちゃいましたね」
なんとなくの沈黙は気まずく、ぽそりと呟く。
海月を眺めている間に、すでに閉館時間を少しだけ過ぎてしまっていた。
「ぼんやりとしていて……僕も気がつかなかったです」
花束の彼は、私の呟きを独り言にはしなかった。
「水族館はお好きなんですか?」
今度は彼から訊いてくる。
「水族館というか……海月が好きなんです。ぼんやりと眺めていられて、なんだか楽なんですよね」
お客さんと店以外の場所で顔を合わせてしまうと緊張してしまう。彼もそんな様子だった。だが、私の慎重な答えに共感したのか、こわばりがほどけたようにふっと表情をほころばせた。
「わかります。なんか、ずっと見ちゃいますよね。ぼうっとして」
「そうなんです。何時間でも眺めていられるんです」
彼は私の答えに同意すると、はにかむように笑って肯きながら続けた。
「……海月って、脳がないじゃないですか。心臓もないし。神経反射だけで食べて、生きて、動いてる。なにも考えていないはずなのに、泳ぐ……っていうかほとんど水の流れに乗ってるだけなのに、楽しそうにみえるのが不思議なんですよね」
「楽しそうにみえますよね」
「本当は楽しいかどうかも当の海月たちには解っているはずがないんですけど。だって、自力で泳ぐわけじゃないから、自分の行きたい場所にも行けないし、そもそも脳がないから行きたい場所なんてないのに」
「そうですよね」
「だけど……ちょっと羨ましいかなって」
そんなことを話しながらベンチから腰を上げると、フロアの入り口から侵入してきた明かりが青い床面を丸く照らした。懐中電灯の白く褪せた光だった。
「あれ? まだ残ってたの? 閉館ですよ」
私たちに声をかけたのは、見事に真っ白な髪を生やした警備員さんだった。
「すみません。もう出ます」
先頭に立つ警備員さんは、私たちを連れて出口へと向かう。ロールプレイングゲームの勇者が引き連れて歩くパーティーみたいだ。
「ここはねぇ、平日には人はあまりこないんですよ。魚たちも寂しいかもね。だからお客さんたちがこんな時間まで残っててびっくりしましたよ」
歩きながらそんな軽口を言う。
「魚たちは人間がいないほうが、案外と気楽かもしれないですよ」
彼の応えに警備員さんは笑った。
「そうかもねぇ。私が魚だったら狭い水槽に入れられてジロジロと見られるよりも、のんびりと本物の海を泳ぎたくなるでしょうからね」
「安全なのは水槽の中のほうかもしれませんよ」と私。
「まあ、そりゃそうです。でも、一回くらいは本物の海に放してやりたいと思いませんか?」
警備員さんは苦笑した。
警備員さんは見事なほどに足音を立てなかった。警備員さんの仕事は、この水族館の健康的な規律を安全に守ることにある。そんなふうな仕事には、足音なんかは必要ないのかもしれない。そんなふうな仕事を存在理由としている彼が、水槽の魚や生物たちの解放を謳う密やかなレジスタンスだったから、足音は封印してしまったのかもしれない。彼の良心にかけて。
水族館の建物を出ると、途端に街の音が流れ込む。プールの水から上がって、耳の中から水が流れ落ちたときのようだ。昏い光に慣れてしまった目には、街の灯りもきらきらしく刺激的だった。
道行く人々の話し声や笑い声、車道を走る車のクラクションにテールランプ、点滅する信号、店のネオンやショーウィンドウから歩道に落ちる明かり、夕暮れの風。高いビルの狭間から覗く夜の空、街の匂い。そういったものが私を海から引きもどす。
その感覚を覚えるときに、私はまだこの世界を構成するカケラだと強く意識をさせられるのだ。
彼は隣を並んで歩いた。同じ駅を使うらしい。
「あの……いつぞやはコーヒーをご馳走さまでした。覚えてますか?」
彼は私の歩調に合わせてくれていた。
「もちろん覚えていますよ。あのときはお待たせしてしまって、申し訳なかったです」
もう四ヶ月以上も前のことだった。
「最近は行ってなくて……」
私以上に申し訳なさそうに、店に来ないことを詫びる彼に、返事をする代わりに軽く頷いた。
彼が花束を買いに来なくなった理由は、幾つかは容易に考えつく。気に入っていた嬢が店を辞めたのか、本気の告白を袖にされてフラれたか、貢ぐ資金が尽きたか。気の毒なことばかりが浮かんでしまったが、これはあくまで私の想像でしかない。本当は仕事が忙しいとかの別の理由かもしれないのだから。
「お元気そうで……」
私は曖昧な言葉を使って答える。
「まあ、元気かどうかは微妙なんですが」
自嘲的に笑った彼の表情も曖昧だった。
「今日はお仕事の帰りですか?」
話題を変えるための質問に「はい。ときどき……あそこでぼんやりとしてます」そう彼は応える。
「いいところですよね」と私。
「あの、本当に……そうですか?」
「はい。警備員さんが言ってたように、平日は人も少なくて静かですし。穴場ですよね」
「あ……そうですよね。ええと、そうじゃなくて、海月が好きだって言ってましたよね」
「そっちですか。本当ですよ」
紛らわしい言い方をしてしまったと、彼は「すみません」と謝った。「いえいえ」と首を振ってから「私も……海月が羨ましいって思います」と答えた。
はっとしたような表情を浮かべて、彼は私をまじまじと見返した。
海月が羨ましいと彼は言った。彼もまた陸の生活に疲れている。私と同じだから分かる。楽に呼吸のできる場所を求めているのだろう。
私が壊れてしまったときに、伯父は手を差しのべてくれた。彼には誰か……そういった人はいないのだろうか。或いは花束を贈っていた嬢がそんな存在だったのだろうか。
「……紅海月になればいいんですよ」
気がついたらぽろりと口にしていた。
「紅海月……」
彼は口のなかで無意識に繰り返す。それから「ああ」と思いついたようだった。
紅海月は不老不死。
身体が傷ついたり、弱ったりするとポリプ期に退行する。生活環を逆行させることができる紅海月は不老不死の海月。厳密にいうと、不老ではなく、若返りらしい。
「そうですよ。紅海月みたいに、傷ついたり疲れたりしたら戻ればいい。戻ってもう一度やり直せばいいんじゃないかなって。海月を眺めているとそんなふうにも思うんです」
ふと口をついて漏れたことだった。だが「ああ、そうだったのだ」と、それに妙に納得する自分自身もいた。
どこに戻るのか。陸か海か。それとも別の場所へか。どこでもいい。望む場所へと行けばいい。私たちは考えることができる。
「……面白いですね」
彼はふっと笑ったが、その物言いからは本当にそう思っているのか、それとも意味のない相槌の代わりだったのかは判らない。
私もただ「そうですか?」と、笑った。
地下鉄に乗るために駅の階段を降りる。
地下の通路は家路を辿る人々でなかなかに混雑していた。足早に行き交う人たちは地下の白い灯りに晒されて、どことなく顔色の悪い薄暗い影に見えた。私たちも同じ影なのだ。
「あ、僕はこっちの線なので、ここで」
一番手前の改札で彼は足を止める。
「はい、では……」
「さようなら」とも「お元気で」とも「また」とも、すべての言葉が違うような気がして、なにも続けなかった。
「あの」
軽く会釈を返して改札の前を通り過ぎようとした私に、思いきったように彼は声を上げた。
「紅海月の話なんですが……そうだなって思えました。ありがとう」
✧✧✧
「普ちゃん、レジをお願いできる?」
「はい。今行きますね」
伝票にある数字を入力する手を止める。
花束のお客さんが続いてるの。ごめんね。と、やよいさんが私を呼びに来た。
うらぶれた繁華街には、今夜も一時の癒しと快楽を求める人々が集っている。
紅海月の彼は、あれから水族館で会うこともない。もしかしたら今でも通っているのかもしれないが、この生花店にも姿を見せなかった。
ポリプ期へと退行して、再生している最中だといい。私と同じように。
母からの電話は相変わらずにかかってくる。
私の態度が頑なに変わらないので、業を煮やして伯父にも電話をかけてきたらしい。
「まったく、百合は小さい頃から頭が固いんだから。時代錯誤もいいとこ。あのコは今が令和の世の中だって解ってるのかしら?」
伯父は苦笑まじりにため息をつく。
「だけどね、百合は百合で普ちゃんのことを心配してるのよねぇ」
伯父の視線に「分かってます」と答える。
母の気持ちはありがたいし、心配をかけている自覚もある。
だけど、今は。
もう少し、あの海に浸っていたい。
自分で泳ぎ出せる力をつけるために。陸での呼吸をしやすいように。
そしてやがて時期がきたら ── 。
母の望む私ではなく、誰かの望む私ではなく、私は私の望む私になりたい。
また自分で歩きだせるように。
読んでくださってありがとうございます。




