(3)生き急ぐ男の夢
どんな背景があったにしろ、騎士になったオーレンはめきめきと頭角を現していった。
庶民出身者という侮蔑が減ったのは、端正な顔立ちと鍛え抜いた体躯から醸し出す独特の雰囲気のおかげもあるだろう。
女性たちから向けられる視線がどんどん熱を増した頃、オーレンは私と酒を飲みながら話をしてくれるようになった。
出身がフランジ男爵領であることも、幼い頃のひどい生活も、酒の合間に話してくれた。文字も数字も読めなかった頃に悪い人間たちから搾取されたから、領主が庶民のために開いた学習塾に通うようになったことも教えてくれた。
でも、私は全てを納得した訳でない。
半年にわたる盗賊討伐から帰還した時、オーレンは一年で階級が幾つも上がっていた。この出世の速さは異常だ。どれだけ功績を上げたのか、考えるとぞっとしてしまう。
帰還を祝ってオーレンを食事に誘った日、地味で貧相で、でもとても美味いめし屋の中で、私はため息をついた。
「君は、生き急いていると言われたことはないかな?」
「たまに言われます」
「騎士団の中では、君は若手の中ではかなりの昇進を果たしている。なのに、なぜまだそんなに上を目指しているのだろうか」
「お金を稼ぎたいからです」
その答えは、嘘だ。少なくとも、過剰なほど出世を目指すのは、それだけが第一の目的ではない。
下層民の家族が借金を作っていたとしても、たかが知れている。王国騎士の給金は下層貴族の規模とほとんど変わらないのだ。
それを指摘するとオーレンは黙り込む。
私は新たに魚の骨を油で揚げたものを注文して、パリパリとかじった。
「フランジ男爵が亡くなってから、男爵位はまだ継承されていないそうだね。子供は二人いるはずなのに、どうなっているのかな?」
「……俺が知っているわけがないでしょう?」
「ふーん、そうか。それで、君はどちらの子と仲がよかったんだい?」
「俺は別に……!」
「ああ、娘の方か。美人なのかな?」
私が聞くと、一瞬向きになって否定しようとしたオーレンは、反省するように深いため息をついた。
「……ソフィアお嬢様はおきれいな方ですよ。性格は領主様に似ていらっしゃって、俺のような下層民であろうと差別しません。聡明で、面倒見が良くて、ご自分たちも余裕はないのに、俺たちに食事を振舞ってくれました。貴族にしてはとても質素な食事だったようだけど、俺にとってはとてもご馳走だったな。手作りの菓子も作ってくれることもありました。あれも本当に美味かった。食べてしまうのがもったいなかったけど、お嬢様がじっと見ているから、食べないわけにもいかなかったんだよな」
淡々とした声だが、言葉数が多い。そのことにオーレンは気付いているだろうか。
ニヤニヤと顔を崩してしまいそうになるのを私は必死で堪え、それからふと首を傾げた。
「小さな街と聞いているが、フランジの名前はよく聞く気がする」
「金貸しが有名ですからね。裕福な商人たちが顧客ですが、かなり多くの貴族と取引があると思います」
なるほど、そういうことか。
それで私がフランジ男爵家のことを調べようとすると、目を逸らす貴族が多かったのか。
「それなら、税収はそれなりにあるのではないかな? それとも本拠地を別にしているのだろうか」
「ガストンさんが——その金貸しが本拠地を移したという話は聞かないので、それなりの税収はあるはずです。でもその金は全部街のために使ってしまうし、気候が安定しない地域だから農作物も豊作までいかない。領地の規模が大きくないから、一度つまずくと、あっという間に転がり落ちてしまうんです」
「君、そう言うことも詳しくなったんだね」
「出世するために必要ですから」
オーレンは淡々と言って、麦酒を飲む。
その横顔を眺めながら残っていた骨煎餅を小さくかじり、私はあえて無粋に踏み込むことにした。
「オーレン。君は、そのお嬢様のことが好きなのか?」
「……憧れの女性です。領民全員がそうだと思いますよ」
男爵令嬢が領民たちに好かれていることは、嘘ではないだろう。
だが、私はごまかされない。オーレンが女性を派手に称えることはよくある。でも、あんなに素朴な賛辞を長々と続けたことはなかったから。
だから、話を終わらせたそうにしているのを無視して、言葉を続けた。
「前男爵の死去の後、フランジ家から何も申請は出ていない。つまり、そのお嬢様はまだ未婚のようだね」
「わざわざ調べたんですか?」
「否定はしない。つまり……君と、結婚の約束でもしているのかなと気になって」
用心深くそう聞くと、オーレンは麦酒の泡を見ながら薄く笑った。
それは嘲笑めいていた。私に対してではなく、自身に向けて。
「……あなたの発言はいつも突拍子がないですね。そんなわけないでしょう。俺は下層民出身ですよ?」
呆れたように言っているが、オーレンの笑顔はどこか硬い。
だから私は、ゆっくりと言葉を続けた。
「確かに君は下層民出身なのだろう。しかし、君のお嬢様は男爵家で、今の君は王国軍の騎士だ。そう見劣りしないよ?」
「何を言っているんですか。庶民と貴族の差は、それくらいで埋まるほど小さくはないでしょう」
「小さいよ。優秀な騎士はどこも重用するし、貴族たちは優秀な騎士を身内として迎えたいと考える。王国騎士団は、そういう存在が外に流れないように集める場所なんだ。そのくらい貴重なんだよ。だから、君は無茶をしてでも出世しようとしているのかと思ったが……違ったようだね?」
私の言葉に、オーレンは呆然としていた。
やはり、そのあたりの貴族の考え方がわかっていなかったのだ。庶民の中でもひどく差別されてきたから、頭になかったのかもしれない。
そう察して、さらに説明しようと身を乗り出す。
しかしオーレンはすでに落ち着きを取り戻していた。どこか暗い苦笑を浮かべ、手をあげて私の言葉を止めた。
「変な希望を煽らないでください。いくら差が小さくなっても、それは表向きの話でしょう? 俺は今でも根底では見下されているし、あの方は没落しても貴族だ。それに……ソフィア様には、結婚を約束している人がいるそうです」
「……え? そうなのか?」
「ソフィア様が選んで、結婚の約束までしているのなら、きっと立派な男です。俺のような下層民じゃないだろうし、出世しか見えていない視野の狭い人間ではないんだろうな」
「いや、オーレンは視野は狭くないだろう」
「ありがとうございます。でも……俺、なぜこんなに必死になっているのか、わからなくなるんですよ」
独り言のように言って、オーレンは薄く笑う。
しかし、目はどこか虚ろで、何かを探すように天井を見上げた。
「泥水の中で足掻いていた俺に、光の中での生き方を教えてくださった領主様に騎士になった姿を見せたかった。ソフィアお嬢様の結婚式に参列しても、誰も眉をひそめないくらいに出世したかった。なのに……領主様は亡くなって、ソフィア様は結婚の約束をした相手がいて、まだ結婚なさらない。俺はどうすればいいんでしょうね」
重いため息がオーレンの口から漏れる。
そのため息に紛れるように、淡々とした声が続いた。
「なぜこんなに必死になっているのか、時々わからなくなるんです。でも、出世を続ける生き方がやめられないんです。ソフィア様が困った時に手伝えるように、強い力が欲しい。ソフィア様の結婚式に参列する日のために、一つでも階級をあげておきたい。フランジ家を馬鹿にする奴がいたら、ひと睨みで追い払えるくらいの権威が欲しい。俺は……ソフィア様に誇ってもらえる男になりたいんです」
静かに語るオーレンは、天井を見上げていた。
しかし言葉は途切れてしまった。思い詰めているのだろうかと心配になった時、ふうっとため息が聞こえた。
「……他の男のために装うと思うと腹が立つけど、花嫁姿のソフィア様はきっとおきれいだろうなぁ。騎士としての俺を歓迎してくれて、皆に俺を誇らしげに紹介してもらえたら……ああ、想像するとなんだかドキドキしてきた……」
虚ろだった目が、いつの間にか楽しそうに煌めいていた。
やっと酔いが回ってきたようだ。何やら想像を膨らませているオーレンは少し元気になっている。
年寄りのように悟り切った顔をするが、オーレンはまだ若い。二十歳になったばかりだから、壮大なようで無邪気な夢を語ってもおかしくないのだ。
どこか子供っぽいオーレンを見ていると、私は妙に微笑ましい気分になった。
「何というか……君は、ささやかなことで喜ぶんだね」
「だってそうでしょう? 昔の俺はいつもドロドロに汚れていて、何かあるたびに殴られて、虫けらのように蹴られていたんですよ。でも今の俺を見たら、威張り散らして俺を嘲笑っていた奴らは強張った愛想笑いをしてくるはずだ。でも……ソフィア様には昔のように笑いかけてもらいたいなぁ。ソフィア様に『私が誇りにしている騎士よ』なんて紹介してもらえたら、俺、感動で倒れるかもしれない」
「……えっ、その程度で?」
「え、誇らしいでしょう?! 俺、王都では結構女性に人気があるけど、ソフィア様はどうだろう。あの方にも『かっこいい』と思ってもらえると思います? もし……もし、ほんの少しだけでも憧れの眼差しを向けてもらえたら、俺は絶対に泣く自信ありますよっ!」
素面のオーレンは、とても冷静な男だ。
しかし、酔うと……なんというか、妙にかわいい男になることがある。今日がそれだ。盗賊討伐から無事に帰還して、気が緩んだのかもしれない。
酔っているとはいえ、オーレンは一人前の男で、我が王国が誇る王国軍の騎士だ。笑ってはいけない。そう思って必死に堪えていたが、ついに私は笑い出してしまった。
「お嬢様に好きとか愛しているなんて言われたら、君はどうなるんだろうね」
「な、何を言っているんですかっ! 別に俺は、そんな大それたこと望んだことは……笑いかけてもらうだけで十分ですよっ!」
「たったそれだけで十分なのか?」
「当たり前じゃないですか!」
オーレンは、本質的には欲のない男なのだ。
私はしばらく笑っていた。周囲が不思議そうに見ていても気にしない。オーレンも私のことは全く気にしていない。さんざん笑っている横で、まだお嬢様のことを考えているようだ。ため息をついたり、顔を赤くしたりしている。
そんな横顔をしばらく眺めていたが、私は咳払いをして笑いを収めた。
「まあ、君の妄想はともかく。……あまり無茶はするなよ。君の訃報を、大切なお嬢様に知らせたくないだろう?」
「わかっています。でも、命をかけるくらいしなければ、俺の生まれでは出世できないんです。いつか、胸を張ってソフィア様にお会いできるように、俺は精一杯頑張りますよ」
オーレンは笑った。
酔いが回っているから、いつも以上に明るい笑顔だ。
だがその目は完全に酔っているわけではない。眼差しの先はどこか遠く、その表情は何かを封じ込めているかのような諦念が混じっている。
額には包帯が巻かれ、左手も手首から手の甲にかけて包帯で隠れている。おそらく、服で隠れているところにも似たような包帯があるはずだ。
オーレンが負傷して帰還するのは、今回に限ったことではない。誰もが尻込みするような激戦地に、自ら志願して向かう。それがオーレンだ。
騎士団の中でオーレンを悪く言う者が減っていったのは、そういう無謀さと、それでも生き残る冷静さを目の当たりにしているからだ。
私は、自分の命を粗雑に扱う無茶な行動を止めることができない。オーレンが望むのは、平凡な出世ではないと知ってしまったから。
密かにため息を吐き、私はオーレンの肩を叩いた。
「死なない程度に、頑張ってくれ」
それが最大の譲歩であり、激励だった。
◇
その後、オーレンは数えきれないほどの激務に志願した。戦場にも出た。その度に傷痕が増え、階級が上がっていく。
何度かは本当に死にかけた。死ななかったのは運がよかっただけだ。それと、どんなことがあろうと諦めない執念のおかげだろう。
もう、誰もオーレンという騎士を嘲笑しない。
どこか異国的な容姿は端正で、身なりにはいつも気を遣っている。英雄と言われても決して驕り高ぶらないから、女性たちにも絶大な人気がある。
誕生日として登録した日には、山のようなお祝いが届いた。
内心はともかく、貴族たちは表向きはにこやかに声をかけるし、それとなく娘との縁談を匂わせる。
もちろん、オーレンは少しも興味を見せなかった。好意的な態度をそのまま受け取るほど無邪気な子供時代ではなかったから。
王国騎士として高給を得ているはずなのに、仕立てはいいけれど地味な服を着て、豪遊することもなく、たまに私と屋台で盛んに飲み食いをするだけの生活だ。
そんなオーレンが、ある手紙を読んだ途端に一変した。
手紙を握りしめたまま騎士団長の部屋に駆け込んで休暇を申請し、同時に多額の前借りをしたらしい。大量の金貨の袋を抱えて騎士兵舎の自室に戻り、簡単な荷造りをしてそのまま出たという。
私がその話を知った後、王都を出るまでに何軒かの店に入ったという情報も得た。宝石などの宝飾品を売ったらしいが、ある宝石については剣を突きつけて絶対に売るなと脅したという情報もあった。
その後は馬を飛ばして旅立ったと聞いて、故郷の家族に何かあったのではないかと心配した。
そんな行動の全てが「お嬢様」のためだったと知ったのは後のこと。王都に戻った途端に、結婚の申請をするとは誰も予想していなかった。
私も驚いた。
だが同時に、とても嬉しかった。誰よりも喜んだという自負がある。
生まれた身分を抜けだそうと、誰よりも努力し、命をかけてきた男は、どれだけ出世しても生まれた身分の呪いに囚われたままだったから。
しかし「お嬢様」と結婚するということは、その呪いが解けたということだ。
それが何よりも嬉しかった。
◇◇
混乱を生じさせたことを全く悔いていない第三王子は、相変わらず機嫌良く微笑んでいる。
嫌みを言うことを諦めた騎士団長は、深いため息をついた。
「……殿下は嬉しそうですね」
「当たり前だよ。私はオーレンがどれだけ頑張ってきたかを知っているからね」
笑顔でそう言われると、騎士団長も何も言えない。
団長だって、オーレンという青年の努力を知っているし、その才能を高く評価してきた。
二十三歳になって間もない青年ではあるが、近いうちに副団長に昇進させるつもりだ。これ以上無茶をして命を浪費させないために、年齢にしては早すぎると言われようと副団長の地位につける。それが騎士団上層部の総意だ。
だから、貴族令嬢と結婚をしても全く問題はない。
騎士団長は深いため息をついて、口をつぐむ。王子はにこやかに身を乗り出した。
「話が終わったのなら、そろそろ席を立ってもいいだろうか。オーレンへのお祝いを考えたいのだよ」
「……残念ですが、もう少しそのままでお願いします」
「おや、君にしては話が長いね」
第三王子は驚いた顔をする。
それを自分への信頼と捉えるべきか、事態を甘く見ていると腹立たしく思うべきか、騎士団長は悩む。
だが、それは一瞬だけだ。
もともと口数が多い方ではない自分からの説教は終わったが、それで終わるというわけでもないのだ。
首を振りながら立ち上がった騎士団長は、第三王子の不思議そうな視線を感じながら扉口へ向かう。ドアノブに手をかけた時だけは、王子に同情的な気分になった。
静かに、しかし迷うことなく扉を開けると、扉口の向こうに背の高い人物が立っていた。眉を動かして目を向けた第三王子は、すぐに顔を強張らせる。
それを見て、騎士団長は少しだけ気持ちが晴れた。
昔、護衛として振り回され続けた時と似た気分が薄れ、北部の草原地帯のように広い心が蘇るのを感じる。もう一度、心から同情してから扉口から離れる。
良く見えるようになった人物は、ニコリともせずに腕組みをしていた。
「あ、兄上……?」
「騎士団長の話が終わったのなら、私と話をしよう。我が弟よ」
冷ややかな目をした第一王子は、腕組みを解いてゆっくりと部屋に入ってくる。
兄の静かな怒りを感じ取ったのか、第三王子は脱出口を求めて部屋中に目を動かす。しかし騎士団長はすでに目を逸らしているし、その他の騎士たちは第一王子の威厳にひれ伏しながら、窓や扉口の守りを固めている。
逃走を諦めた第三王子は、今まで騎士団長が座っていた椅子に腰を下ろした兄に向き直り、わずかに引きつった微笑みを浮かべた。
「その……兄上とも、オーレンへの祝いの品の相談をしたいのですが」
「いいだろう。だが、それは後だ。まずは王族としての心得について、じっくりと話し合おうではないか」
ゆったりとした声なのに、第三王子は真っ青になり、騎士たちはびしりと姿勢を正す。
いかなる相手にも引けを取らないと言われる騎士たちだったが、密かに背筋が寒くなるのを感じていた。
番外編『食べ歩き仲間は回想する』 【終】