(1)ハールの事情
番外編です。本編を読み終わった後にご覧ください。全2話。
領主であるフランジ男爵が死去した。
葬儀に出たハールはすぐには自宅へ帰らず、喪服のまま、ある家へと向かう。
訪問先は、恋人のリンダの家だった。
笑顔で扉を開けたリンダの妹は、ハールを見た瞬間に動きを止めた。
しかしすぐにいつも通りに居間へ通すと、そのまま台所にいる姉を呼びに走っていった。
「姉さん! ハールが来たわよ!」
「んー、今、計算をしているところだから、少し待ってもらって」
「家計簿なんていいから! すぐに来て!」
興奮した妹に追い立てられ、リンダはため息をつきつつ、手早くお茶とお菓子を用意する。
そして気楽に扉を開け……そのまま扉口で唖然とした。
いつものハールは、明るい色ばかりを好んで着る。
でも待っていたハールは黒い服を着ていて、まるで別人のようだ。
見慣れない色を着ているせいかもしれないし、唇をギュッと引き結んで笑っていないからかもしれない。
今日のハールは、十八歳という年齢以上に大人に見えて、リンダは密かにときめいてしまった。
なんとかお茶とお菓子を並べ、いつものように妹も同席してお茶を振る舞う。
しかし、ハールはお茶にもお菓子にも手を出さなかった。
「リンダ。君に大切な話があるんだ」
ハールが真剣な顔で切り出した途端に、同席していた妹が急に立ち上がった。
「ごめん、用事を思い出しちゃったわ!」
それだけ言うと、あっという間に部屋を出て行く。
残されたのはリンダと、黒服姿のハールだけ。
表向きは平然とお茶を飲んでいるリンダは、しかし心の中では大変に動揺していた。
(これは、いわゆるアレなのかしら。どうしよう。私たちはまだ十八歳で、まだもうちょっと羽を伸ばしたいというか、でも子供はたくさん欲しいから、もう結婚しちゃってもいいかもしれないし……!)
動揺しているのか、浮かれているのか、自分でもよくわからない。
どうしようもなくて、二個目のケーキを食べようと皿に手を伸ばした時、うつむいていたハールが顔を上げた。
「リンダ。聞いて欲しいことがある」
「な、何かしら」
平静を装いながら、リンダは今度は「大切な話」ではないのだなと気が付いた。
(プロポーズって、聞いてほしいことに含まれるのかしら?)
そう首を傾げた時、ハールはケーキの皿へと伸びかけていたリンダの手を握りしめた。
「君とは結婚できない。それでもよければ恋人のままでいてくれ」
「……は?」
「俺にはプロポーズしたい女性がいるんだ!」
ハールは真剣だった。
だから本気なのだろうと悟る。そのくらいのことを確信できるくらい、長く付き合っている。幼馴染時代を含めると、赤子の頃からの付き合いなのだ。
一瞬硬直してしまったリンダは、ふっと息を吐いた。真剣なハールの顔を見つめ、ハールの手から自分の手を抜き取った。
「確認していいかしら」
「うん」
「ハールは、私とは結婚するつもりがないのね?」
「君のことは好きだけど、結婚はできない」
「その理由が、他の女性にプロポーズしたいから?」
「その通り」
「聞き間違えではなかったのね。……となれば、私の返事は決まっているわ」
リンダはにっこりと微笑んだ。
その笑みはとても美しく、ハールは見惚れる。
でも、目が少しも笑っていないことにも気が付いて、今度はハールが身を固くした。
「あの、リンダ?」
「……歯を食いしばれ」
「え?」
「歯を食いしばれって言ってるの!」
「えっ、はい!」
「そのまま口を閉じていてね」
リンダは思いっきり息を吸う。
それから、一息に手を振り上げ、そのままギュンと風が鳴る勢いで振り抜いた。
バシーン!
いい音が響き、ハールがよろりと床に膝をつく。
じわじわと赤い手形が浮き上がっていく頬に手を当てながら、ハールは唖然と見上げる。そんな恋人に、リンダは冷ややかな目を向けた。
「一昨日来やがれ。クズ野郎」
唇から紡がれたのは、ふわふわして可愛らしい容姿に合わない、ぞっとするほど凄みのある声だった。
◇
リンダがハールと別れたらしい。
その噂は、風のように街中に広がった。
噂の出所は複数疑われたが、顔に手形をつけたハールがドアから蹴り出された姿は多くの通行人が目撃していたから、発信元がどこかは特定できない。
その分信頼性のある話として囁かれたし、正装で別れ話を切り出したのなら、今度こそ本当に別れるのだろう、というのが大方の見方だ。
しかし、リンダがハールを蹴り出す瞬間を見てしまった妹は、深々とため息をついた。
「でも、あれは喪服だったんだってね」
「……そうらしいわね」
「領主様の葬儀に出るのは、まあ当然だと思うわよ。でも、喪服のまま着替えもせずに姉さんに会いに来て、別れ話だなんて、普通する?」
「…………普通はしないわよね」
リンダはため息をついた。
でも妹はもっと大きなため息をついて、頭を抱えた。
「ハールは、姉さんを大切にする人だと思っていたけど、やっぱり金貸し体質なのかしら!」
リンダだって、妹が言いたいことはよくわかる。
金貸しは人格者ではない。大金持ちだが、人として欠けているものがあるし、人の恨みを買うこともある。
でも、ハールは違うと思っていた。
お坊ちゃん育ちで、のんびりとしていて、ちょっと言葉が迂闊で、でも優しい人。だから、付き合ってほしいと言われた時は嬉しかった。
なのに……。
「……ねえ、おかしいと思わない?」
「全部おかしいわよ!」
「そうじゃなくて、ハールは誰にプロポーズするつもりなのかしら」
「は? 姉さん?」
「そりゃあ、誰にでもいい顔をするし、気前よくプレゼントするけど、深い意味は全くない人よ。でも、プロポーズとなると普通じゃないわ」
「当たり前じゃない! 結婚するつもりはないけど恋人のままでいてくれ、なんて、そんな男はクズよ! どうせ金持ち女と結婚するのよ!」
語気の荒い妹の言葉を聞きながら、リンダは眉をひそめながら首を傾げた。
冷静になって考えると、やはりそこがおかしいのだ。
「はっきり言って、ガストンさんはすごい大金持ちよ。ハールがわざわざ結婚するほどの旨みのある相手、いると思う?」
「えーっと、この街にはいなくても、他所になら少しはいるだろうし、箔付けにどこかのお貴族様のご令嬢をお金で買ったり……あ」
「そうよ、お金で買えそうな人がいるのよ」
妹にそう言ったリンダは真剣だった。
この辺りの領主フランジ男爵が死去し、若い令嬢が残された。後継者となる令息はまだ幼く、後妻だった女性も頼りないほど若い。
「まさか、ハールは未亡人となった奥様を……!?」
「それもありそうだけど、たぶんソフィア様じゃないかしら」
「つまり、借金を盾にソフィア様に結婚を迫るの!? そんな悪徳金貸しだったなんて、見損なったわ!」
妹が憤然と息巻く。
対照的に、リンダは静かに考え込んでいた。
やがて、唐突に立ち上がった。
「姉さん?」
「ハールに会いにいく。もしソフィア様を脅すつもりなら、刺し違えてでも止めるわ!」
「え、ちょっと、私も行くから!」
早足で家を出るリンダを、妹は慌てて追っていった。
「……リンダ! 君に会えて嬉しいよ」
豪華な家でリンダと妹を迎えたハールは、本当に嬉しそうだった。すでに顔の腫れは引いている。
でもリンダは、ニコリともせずにハールの胸ぐらを掴んだ。
「ハール。あなたに話があるの」
「え、何かな」
「あなたがプロポーズする相手は、ソフィア様なの?」
そう聞いた途端、ハールの表情がスッと消えた。
ニコニコと笑っている時は育ちの良さそうな、顔のいい青年なのに、表情を消すと金貸しの跡取りらしさが増す。
目を合わせないハールをにらみつけ、リンダは声をひそめた。
「ソフィア様を脅すつもりなら、私は命をかけてでも止めるわよ」
「変なことに命をかけるんだね」
「当たり前でしょう! 私、ソフィア様にはお世話になっているの。おばあちゃんが寝込んだ時は話し相手をしに来てくれたし、父さんが倒れた時は母さんにお屋敷の仕事を用意してくれたわ。あの頃、本当は全く余裕がなかったと聞いたのは、ずいぶん後だったの」
「……うん。あの頃から、ソフィア様は自分のドレスを新しく作っていない」
ハールはうつむいて唇を噛み締めた
リンダを始めとした街の女たちは、領主のお屋敷に出向く時に何を着るかをとても気を遣う。
地味なものを選ぶべきかと悩み、でも、きれいな格好をするとソフィアはとても目を輝かせてデザインのことを聞いてくるからと思い直して、結局は流行のものにする。
その後に、古いドレスを流行の形にリメイクしているソフィアをよく見る。何を着てもソフィアは気品があるけれど、お屋敷に行く時はソフィアに似合いそうなデザインを探して着る。それがリンダたちの——街の女たちの暗黙の了解になっている。
本当だったら、内情が苦しいと言っても新しいドレスを少し作るくらいはできたはずだ。なのに善良な領主一家は、その余剰分を全て領民のために充ててきた。
それがリンダにはもどかしい。
「亡くなった領主様だって、私たちのために新しく道を通して整備してくれたし、井戸も新しく作ってくれた。街にお医者様を常駐させるために、先祖伝来の宝石を売ってしまったと聞いたわ」
「そうだよ。宝石の買取は父さんが仲介して、ギリギリまで高く買わせた」
「そんな領主様ご一家なのに、ソフィア様に結婚を迫るなんて、私が絶対に許さないから!」
リンダは睨みつける。
恋人の迫力にハールは一瞬目を丸くして、それからなんだか複雑そうな顔をした。
「リンダが許せないのは、俺が君以外の女性にプロポーズすることじゃないんだね」
「それも許せないけど、ソフィア様には、あなたなんかよりいい男がいるはずだってことよ!」
「……でもね、オーレンはまだ出世が間に合っていないんだ」
「だから、お嬢様は結婚してはダメなのよ!」
リンダはハールの体を大きく揺らす。
でも何をされても、ハールは表情を崩さない。小さくため息をついただけだった。