(3)私をもらってくれる?
ものすごい速さで駆けてきた馬は、私のすぐ近くで止まった。
とても美しくてたくましい馬だ。かなりの距離を走ってきたようなのに、まだ十分に体力が残っている。鎧には王家を示す金の紋章が入っている。
私は……顔を上げる勇気がなくて、じっと馬の腹ばかりを見てしまう。
「ソフィア様!」
馬から飛び降りた騎士が、駆け寄ってくる。
私はおそるおそる目を上げた。
立派な剣と、王国騎士団の紋章の入った制服。マントは土埃で白っぽく汚れている。しっかりと鍛えているのか肩幅は広く、背も高い。……私が覚えているよりも、さらに背が伸びたようだ。
「オーレン……」
ぐしゃぐしゃになった髪を乱暴にかきあげて、騎士は……オーレンは呆然とする私の両肩に手を置いて、顔をしかめた。
「お久しぶりです。ソフィア様。……ハールと結婚すると聞きました」
「え、ええ、そうよ。ああ、ハールが知らせてくれたのね」
「なぜ、あいつと結婚するんですか! あなたはずっと想い人を待っていると聞いていたのに!」
「……え?」
「心に決めた人を待っていると聞いたから、せめてソフィア様に誇ってもらえるような、立派な参列者になろうと頑張ってきたのに。なぜあきらめるんですか! ハールの野郎が脅してきたんなら、俺が脅し返してやりますよ!」
オーレンの口調は激しい。
怖いくらいだ。でも、オーレンの目は昔のままで、私の肩に置いている手は大きい。
なんて立派な騎士になったんだろう。
いろいろと誤解して、私のために怒っているようだ。昔のまま、私を「お嬢様」として守ろうとしてくれている。
もう、忘れられてしまったかと思っていた。
でも……私のことを覚えてくれていた。
こんなに立派な騎士になったオーレンを見たら、父はとても喜んでいただろう。きっと嬉しそうに笑って、肩を叩きながら「今夜はとっておきの酒を開けよう!」と言ったはずだ。
「……あ、ソフィア様?! す、すみません! 俺、お嬢様を脅しているわけじゃないんですっ! どうしよう、仕事柄、ちょっと強面になってしまったようで……すみません!」
急に涙を流してしまった私に、オーレンは慌てて肩から手をのけた。どうすればいいかわからずに、おろおろと手を動かしている。
ああ、オーレンだ。
私が知っているオーレンのままだ。
私は嬉しくて、少し笑ってしまった。笑いながら、頬に流れ落ちてしまった涙を急いで拭った。
「ごめんなさい。オーレンが怖いわけでは……少し怖いくらいだったけど、怖くて泣いたわけでないのよ。あなたの今の姿を、お父様に見せたかったなと思っただけなの」
「……旦那様の葬儀に参列できなくて、申し訳ありませんでした」
「遠い王都にいたんだから仕方がないわよ。それより、本当に立派な騎士になったのね。びっくりしたわ。ねえ、全身を見せてちょうだい。……うん、かっこいいわね」
私が一歩下がって見ると、オーレンは困ったような顔をして目を逸らした。でもやめろとは言わない。乱れた髪を手で撫で付け、歪んでいた襟や袖口を整える。
その身支度の手慣れた様子から、普段のオーレンがうかがえる。いつもきちんとした姿をして、貴き方々の護衛をして、王国を守っているのだろう。
なんて立派になったんだろう。
嬉しくて……でも、なんだか胸がきゅっと痛む。
私はこの屋敷を手放すほど没落してしまったのに、オーレンは自分の力で前へ前へと進んでいる。そんな現実を思い知らされるから。
そんな苦しさから逃れようと、私は敢えて明るい声を出した。
「あら、その階級章、なんだか偉い人みたいね。もしかして出世したの?」
「えっと、まあ、それなりに……」
「よかったわね! オーレンは昔からとても頑張っていたんですもの。もしかして、もう結婚もしたんじゃない?」
できるだけ軽く聞こえるように、そう言ってみた。
途端に、オーレンは顔をこわばらせてしまった。
「……俺は、結婚はしていません」
「でも、女性たちにモテているんでしょう?」
「俺には関係ありません。俺は…………いや、そんなことより、ソフィア様の結婚ですよ! なぜ、あきらめるんですか! 借金なら大丈夫です。金は用意しましたから、あいつに突きつけてきます!」
「え?」
「これでも、いろいろ戦功を上げてるんです。まだちょっと足りなかったけど、上官に前借りしてきました。ソフィア様にいただいた宝石も売らせてもらいました。でも必ず買い戻すつもりなので、絶対によそに売るなと脅しています。だから、意に沿わない結婚なんてやめてください!」
オーレンがまた怖い顔になった。
今度は少しも怖くはない。私のために必死になっているだけだとわかっているから。
でも……気持ちは嬉しいけれど。
「あのね、オーレン。誤解なのよ」
「ハールが好きになったから、なんて嘘は聞きたくないですよ!」
「そうじゃなくて、いないの」
「何がですか!」
「心に決めた人なんて、いないのよ。誰かを待っているというのも、嘘なの」
何かを言おうとしていたオーレンが、ポカンと口を開けた。
瞬きをして、私が言った言葉を反芻しているようだ。
「ハールったら、伝え忘れたのね。私が結婚を拒んでいたのは、ハールと結婚したくなかったからなの。ハールが嫌いというより、恋人がいることは知っていたから」
「……え? でも、ソフィア様は……」
オーレンは首を振った。
口を何度も開けたけれど、言葉にならないようだ。どんどん顔色が悪くなっていく。そして、はぁっと長い息を吐いて、頭を抱えながらその場にしゃがみ込んでしまった。
「…………つまり、ソフィア様が誰かと将来を誓っていたというのも、嘘だったんですか?」
「ええ、そうよ」
「……俺、ソフィア様の結婚式に、騎士団の礼装で出席するつもりだったんです」
「そうだったの?」
「ソフィア様のお身内って、ほとんどいないでしょう? だから俺が出席して、騎士団長にも一緒に来てもらって、予定が空いていたら、だまして王子殿下も引っ張り出そうと思ってました」
「そ、そんなとんでもないことを考えていたの?!」
「今の俺には、そのくらいの人脈があるんです。そんな俺がかしずくくらいに、ソフィア様は素晴らしい方なんだと見せつけたかったんです」
どうやら、オーレンの考えることは派手なようだ。
私が呆れていると、オーレンはしゃがんだまま私を見上げた。
「……俺を見て怯えるような小さな男だったら、ソフィア様をさらって行こうと思っていました」
「え?」
急に、何を言い出したのだろう。
私が戸惑っているのに、オーレンは真面目な顔で言葉を続けた。
「ソフィア様が、想い人を理由にハールとの結婚を拒んでいるときいて、俺は絶望したんです。ソフィア様の心に誰かがいることに耐えられなくなって、俺は不義理をしてしまいました。……ずっと必死になっていたのに、出世の報告をすることもできなかった」
オーレンは姿勢を変えて、片膝をついた。
私の手を取り、恭しく口付けをする。唇は肌をかすめただけだったけど、私を見上げた目は……逃げ出したくなるほど熱かった。
「ソフィア様、借金は俺が引き受けます。だから、ハールの野郎とは結婚しないでください。そして……そして……」
急き込むような口調が、ふと途切れる。
まっすぐで熱かった視線が、右へ左へとさまよい始めた。
「…………そ、その、もしよかったら……嫌でなければ……俺と……俺と…………結婚…………してもらえると、嬉しいです」
オーレンの顔が赤い。声も小さい。
でも、かろうじて聞き取れた。
聞き間違えでなければ……プロポーズ、された?
たぶんそうだと思うけれど、はっきり聞き取れなかったから、違うかもしれない。
私が反応に困っていると、茂みの向こうで、ぐうっ、と変な声がきこえ、すぐに大きな笑い声が起こった。
「おい、オーレン! お前、なぜそこで急に弱気になるんだよ! もっとガツガツいけよ!」
ハールだ。
いつの間にか屋敷に来て、茂みに隠れていたようだ。
いつからいたのだろう。
腹を抱えて笑っているハールを、オーレンはジロリと睨んだ。
「……ハール! お前、もっと正確に手紙を書けよ!」
「いいじゃないか! そうでもしないと、お前は動かないだろう?」
「そ、それはそうかもしれないが……というか、お前、邪魔するな!」
「ああ、それは悪かった。でも、肝心なところで弱気になって……くそっ、しばらく思い出しただけで笑ってしまうよ!」
そう言って、涙を流しながら笑っている。
……ハールって、昔から笑い出したら止まらない子だったな。
私がぼんやりそんなことを思い出していると、ぐいと手を引っ張られた。
そうだ。ぼんやりしている場合ではなかった。
まだオーレンは私の前に片膝をついていて、私の手は握り込まれていた。
「あいつに邪魔されてしまいましたが、その、さっきの返事を……聞かせてもらえると……嬉しい、かもしれません」
「オーレン! もっとはっきり言えよ! 俺を笑い殺すつもりか!」
「黙れ! …………ソフィア様、あなたが好きです! 結婚してくださいっ!」
真っ赤になったオーレンが、自棄になったように叫んだ。
でも、私を見上げる目はとても熱い。
そして不安そうだ。
王国騎士団に入って、かなりの出世をしていて、黙って立っていると女性たちが大騒ぎしそうな立派な騎士になっているのに、オーレンはオーレンだった。
強気かと思えば、真っ赤になって、とても控えめな言葉しか使えなくて、でも私を好きだと言ってくれる。
「……私、財産がないどころか、借金があるのよ?」
「俺が財産を作ります!」
「もう二十五歳になったわ」
「俺も、やっと二十三歳になりました!」
「本当に、私でいいの?」
「ソフィア様がいいです」
オーレンはキッパリと言った。
でも、すぐにまた視線を揺らがせ、目を伏せた。
「……俺は低い生まれだから、ソフィア様は嫌かもしれませんが」
「馬鹿ね!」
私はぎゅっとオーレンの手を両手で握り返した。
また熱に浮かされたように私を見上げる目を見詰め返しながら、そっと地面に膝をつけた。
「ソフィア様! 服が汚れます!」
「ねぇ、オーレン。お父様は『生まれより本人がどれだけ努力するかが大切だ』と、いつも言っていたわ」
「……はい。俺はずっと、旦那様のお言葉に励まされてきました」
「私もそう思う。努力して今の地位に就いたオーレンは誰より素晴らしいわ。私は尊敬している」
オーレンはゆっくりと瞬きをした。
それから、はにかんだように笑い、私の手に額を押し当てた。
「ありがとうございます」
そう言って顔を伏せたオーレンの首に、薄い傷跡があった。
昔はこんな傷跡はなかった。騎士としての日々の中で残ったものだろう。もっと深かったら、もっと位置がずれていたら……オーレンはここにいなかったのかもしれない。
そう思うと、急に怖くなった。
今の私は欲張りだ。
オーレンが私を覚えていてくれただけでは満足できない。私が知らないところでオーレンに何かあることも耐えられない。
もう、何も手放したくない。
傷跡の残る首に腕を回し、ぎゅっと力を込めた。
「……オーレン、私をもらってくれる?」
オーレンは答えない。
何も言わず、でも私の体を両腕で包み込んで、決して離そうとはしなかった。
◇
ガストンさんは、私がハールとは結婚しないと伝えても全く怒らなかった。
オーレンが用意した山のようなお金を受け取ると、半分に分けて「お祝い金です」と私に押し付けた。気のせいでなければ、ガストンさんはとても嬉しそうで、ハールもやっぱりとても嬉しそうだった。
金貸し親子は、突然こだわりも捨てた。
ガストンさんはすでにあった紙で結婚申請書を作りあげ、金貸しらしい怖い顔で「早く署名しろ」とオーレンに迫った。
刺繍の模様にこだわっていたはずのハールは、「この布に刺繍を入れるなんて冒涜だ」と言い出して、職人たちに睨まれていた。
そうして、三ヶ月後。
私は、オーレンと結婚した。
王国騎士団の礼装姿のオーレンは想像以上に素敵で、私は見惚れてしまった。
結婚式には、本当に騎士団長様が参列するためにきてくれた。オーレンの部下だと名乗る騎士たちもたくさん参列していた。
どうやらオーレンは、結婚式の一週間前に王国騎士団の副団長に就任していたらしい。
照れずに教えてくれればいいのに。お祝いを言いそびれてしまった。
そして……。
「一緒に屋台巡りをした飲み友達です!」
笑顔でそう名乗ったのは、第三王子殿下だった。
美味しい名物料理があると誘われたらしい。
……なんてことだろう。本当に王子殿下が結婚式に参列してくださるなんて!
いろいろ、オーレンには言いたいことがある。
……とてもたくさんあったのだけど。
式の間も、その後の宴の間も、オーレンはずっと泣いていて、私は呆れてそれどころではなくなってしまった。
こんなによく泣く人だったなんて、知らなかった。
でもそんな一面もオーレンらしくて、私は少しも嫌いではない。
◇ 終 ◇