(2)年下の幼馴染
◇
いつものように家を訪れたガストンさんに、ハールとの結婚の承諾を伝えた。
ガストンさんはほっとしたような顔をした。
すぐにハールもやってきたけれど、真剣な顔で声をひそめた。
「本当に、俺と結婚するつもりなの?」
「結婚しろと迫っていたのはあなたたちでしょう? ロイドが大きくなるまで男爵位は守らなければいけないから、利用させてもらうわよ」
「でも……ソフィア様は待っているんだろう?」
どうやら、ハールはまだ私の嘘を信じているらしい。
こういう気の良さがあるから、私はハールが嫌えない。恋人の件以外はいい人なのだ。
「本当は、私は誰も待っていないの。結婚を断るために嘘をついてしまったわ。ごめんなさい」
「……え、嘘? でも……」
「それより、あなたの恋人のことは私も知っているわよ。恋人さんが嫌でなければ、きちんとお迎えするべきよ。同じ家にいてもいいし、気になるなら別の家のままでもいいわ。だから、大切にしてあげて」
「……知ってたの?」
「知っているわよ。なぜ結婚しないのかは知らないけれど」
「だって……俺が結婚したら、ソフィア様に結婚を申し込めないだろう?」
「はぁ? 何よそれ!」
私は呆れた。
なのにハールはとても真面目な顔になって、でも少し不貞腐れたように目を逸らした。
「俺の家は金貸しだ。借金を盾に、ソフィア様に結婚を迫ることができる」
「実際にそうしていたわね」
「俺ならソフィア様を守ることができる。俺が結婚を申し込んでいる間は、他のクソ野郎どもは手を出せない。うちは庶民だけど、お金だけはあるからね! 家柄が欲しいだけの成金ジジイどもが来たことはあったけど、軽く足元を揺さぶったら青い顔で逃げ出したよ。ざまぁ見ろだ!」
「ハール。言葉が乱れているわよ」
私はそう言ったけれど、ハールの横顔は真剣な表情のままだった。
……そうか。ハールは私を守ろうとしていたのね。
自分の心と、恋人と、子供を犠牲にして。
馬鹿ね。
そんなことをしてもらう価値なんて、私にはないのに。
でも、私はそんなハールを利用しなければいけない。まだ幼い異母弟ロイドと、義母アリッサと、フランジ男爵位を守るために。
「ありがとう。ハール。だから……結婚しましょう」
ハールはグッと口を引き結んだ。
そして、肩から力を抜いて、深いため息をついた。
「……わかったよ。手続きを進める。でも準備は簡単じゃないから、時間はまだかかるはずだ。もしその間に心が変わったら、その時はいつでも言ってね」
「変わらないわよ」
私はそう言ったけれど、ハールは鼻の先で笑った。
全く信じていないらしい。
時々、ハールはとても腹が立つ。昔のままだ。
◇
結婚の準備は、なかなか進まなかった。
婚礼衣装用の布は準備しているのに、ドレスのデザインを一からやり直しているためだ。刺繍も、どこにどの模様を作るかを職人たちとハールが真剣に話し合うばかりで、なかなか進まない。
「そこまでこだわる必要はないわよ」
「いや、こだわる。ソフィア様が着るんだから、この世で最高のものにする必要があるんだ」
「無駄な出費だわ」
「必要経費だよ!」
ハールはこの調子で、あらゆるものにこだわっている。
ガストンさんは苦笑しているばかりで、息子の暴走を止めようとはしない。むしろ、ガストンさんもよくわからないこだわりを発揮していた。結婚申請用の紙を一から作り直して、どれにするかをじっくり吟味しているのだ。
——この親子、こんなにこだわりが強かっただろうか。
これで、よく金貸しなんてやっていられるなと思うけれど、仕事になると極めて合理主義になるらしい。
庶民のどこまでも上昇しようとする活力は、私のような没落貴族には理解できないようだ。
義母アリッサは、私に何度も謝ってくる。
そんな必要はないと何度言っても「私たちのために犠牲になるなんて」と泣いた。
異母弟ロイドは「早く大きくなって、姉上を救い出します!」と言ってくれる。可愛いけれど、ハールは悪人ではないとしっかり教えなければ。
そう思うのに、ハール自身が「早く俺を倒せるようになれ!」と煽っている。子供をからかうのはいい加減にするべきだ。本気にされたらどうするのだろう。
そして私は、昔の屋敷に戻っていた。
一度は別の商人の手に渡った屋敷は、ガストンさんが買い取ってくれていたようだ。結婚した後、私たちはこの屋敷に住むことになっていた。所有権は私のものになるらしい。
この屋敷なら、ハールが恋人と子供たちを呼び寄せても問題はないだろう。庭も広いから、きっといい遊び場所になる。
久しぶりの屋敷の内部は、全く荒れていなかった。
それどころか、念入りに修理をされていた。グラグラして危険だった階段の手すりは、新しい部品に交換されてしっかりしていた。窓枠もほとんど全て交換しているようだ。隙間風がなくなり、開閉も楽にできるようになった。昔は開かない窓が多かったのだ。
ただ、カーテンだけは昔のままだった。
古びて色褪せているけれど、不自然なほど手付かずだ。ハールにどうするか聞いても「好きにしていいよ」としか言わない。
私はこの古いカーテンが好きだけど……裕福な金貸しの後継者の家が、そんな古ぼけた内装でいいのだろうか。
「でも、そのうちハールが好きに変えるかもしれないわね」
恋人さんの好みになるかもしれないし、子供たちが好きな色になるかもしれない。
ハールが恋人さんと別の家に住むようになれば、この屋敷は弟のロイドが引き継ぐことになる。
そうなったら、弟か、その妻となる女性の好みを反映することになる。その時にためらわずに済むように、古いままでいいのかもしれない。
今日もそんなことを考えながら、私は前庭へと出た。
何もないせいで、前庭はとても日当たりがいい。最近の流行りなら、美しい石像などを飾るらしいけれど、私はこの何もない昔風の姿に馴染んでいる。
ここで、昔は父が子供たちに本の読み聞かせをしていた。
昔の伝説、王様の話、守るべき法律の話もした。
大人たちを集めて、効率のいい農作業の方法について話し合うこともあった。
父も、子供たちも、大人たちも、皆が草の上に座っていた。そう言う時は簡単なお菓子を用意していたものだ。収穫の時期は、ここで農民たちに食事や酒を振舞った。
騎士たちが新しい就職先へと旅立った日は、私はここでみんなを見送った。オーレンが何度も何度も振り返っていたことを覚えている。
あの頃のオーレンは背は伸びていたけど、騎士たちに比べるとまだ細かった。
あれから何度か手紙が来て、王国騎士団に入ったことは知っている。父が亡くなった時は、丁寧なお悔やみの手紙が届いた。でもそれっきりだ。今は何をしているのやら。
「……私より二歳下だから、オーレンも二十三歳になっているわよね。早ければ結婚していてもおかしくないかな」
王国騎士団は、若い女性たちに人気があると聞いている。
オーレンは低い生まれだけど、異国の血が入っているせいか独特の雰囲気があったし、顔立ちも整っていた。
きっと女性たちが放っておかない。
この屋敷に通っていた頃だって、メイドや出入りしていた街の娘たちが騒いでいたから。
それに引き換え、私は行き遅れの二十五歳。
ガストンさんやハールの厚意で、なんとか体面を保っている没落貴族だ。使用人を使っていなかったから手は荒れているし、化粧っ気のない肌もガサガサ。髪も手入れが行き届いていなかった。
でもここ最近は、ハールが用意した美容液などのおかげで、少しだけきれいになりつつある。
ハールは、本当によく気がつくいい人なのだ。
「私なんかと結婚するのは、もったいないわよね……」
つい、そんなことをつぶやいてしまった時、遠くから馬が駆けてくる音がした。
あんなに走らせているなんて、この辺りでは珍しい。
どうしたのだろうと目を向けると、ものすごい勢いで馬を走らせる騎士が見えた。鮮やかな色のマントが翻っている。
王国騎士団の制服だ。
そう気付いた瞬間、私は立ち尽くしてしまった。
なぜ、ここに王国騎士がやってくるのだろう。……まさか。いや、そんなはずはない。
心臓がうるさいほど早く打っている。
私が混乱している間に、騎馬は屋敷の敷地に入ってきた。一応、門にはハールが派遣してくれた人がいる。でも王国騎士団の制服を見て、慌てて門を大きく開いていた。