(1)男爵令嬢の想い人
「ソフィア様。そろそろ覚悟を決めてくれませんか」
金貸しのガストンさんは渋い顔をしていた。
でも私は、いつも通りの取り繕った笑顔を浮かべて首を横に振る。
そんな反応は予想していたのだろう。ガストンさんは慌てることなく、深いため息をついた。
「お気持ちはわかりますよ? でも先代がお亡くなりになって、もう五年です。これ以上の引き伸ばしは難しいことはわかっているのでしょう?」
「もちろんわかっているわ。男爵位の継承の期限は、当主の死から六年以内だということくらい」
「それならば、覚悟を……」
「でも、こればかりはダメなの。ガストンさんのご子息とは結婚できないわ」
「とは言いましてもね、男爵位はどうするんですか。六年が過ぎたら、完全に没収されてしまうんですよ」
ガストンさんの言葉は正論だ。
前代フランジ男爵だった父が亡くなって、五年が過ぎた。
我が家は没落していて、ささやかな領地はずいぶん前から借金の抵当に入っていて、男爵位は空位のまま王家の預かりになっている。
私がガストンさんの息子ハールと結婚すれば、ガストンさんは支度金の名目で借金のほとんどを棒引きにすると言った。それどころか、男爵位の継承に必要な経費も、全てお祝い名目で出すとまで言ってくれている。
この申し出はとてもありがたい。
私には、年の離れた異母弟ロイドがいる。
弟が成人するまで、男爵位は私が守りたいと思っている。残った借金を返済しながら、領地経営を少しでも改善したい。病弱だった父の晩年を明るく支えてくれた後妻アリッサにも報いてあげたい。
そのためには、手続きのためのお金を——今の私には莫大すぎるお金を用意しなければならない。
少しずつお金は貯めている。でも期限内に必要な金額を用意するのは難しくなっていた。
他に手段がないことはわかっている。
私がハールと結婚すれば、全てが解決するのだ。
でも、私はそれだけはしたくはなかった。
だってハールには長年の恋人がいて、彼女との間に二人目の子が生まれた。ガストンさんが私に結婚話を持ちかけているのに、その恋人は恋人のままで、周囲に隠そうとしていないのだ。
今のハールはそういう男だ。
彼のことは、川遊びで顔に水がかかっただけで泣いていた子供の頃から知っている。
昔は素直でかわいい男の子だったのに、今では「俺と結婚しませんか?」と言いながら、恋人とも別れる気配がない男になっている。
いや、恋人がいることは許している。
ただ……その恋人との間に子供が二人も生まれているのに、なぜまだ恋人のままなのか。
それが許せない。
私は昔ながらの堅苦しい価値観の中で育ち、貴族であっても愛人を持たなかった父しか知らないから。
「ごめんなさい。私はハールとは結婚したくないのよ」
ガストンさんに面と向かってハールの悪口は言いたくないから、言葉をぼやかしたまま謝罪する。
それをどう解釈したのか、私を見つめていたガストンさんはため息をついた。
「ガストンさん?」
「……平民の金貸しごときに『さん』付けなど不要ですよ。ソフィア様はフランジ家のお嬢様なのですから。いや、愚息との結婚を迫っている私が言うことではありませんがね。でも、ここまで来たら言わせてもらいますよ。ソフィア様。これ以上の時間稼ぎは不可能です」
「でも」
「ええ、わかっています。ソフィア様が心に決めた方を待っていることはね。でも、その方はいつ来るのですか。本当に迎えに来てくれるのですか。なぜあなたの苦境を見逃しているのですか」
「それは……」
私は答えられずに目を伏せる。
ガストンさんは、少しだけ身を乗り出した。
「ソフィア様。せめて手紙を書いてはどうですか? もう待てないと急かすべきですよ」
私はますます答えられなくなった。
幸い、ガストンさんはそれ以上私を急かすことはなかった。
私が用意したわずかなお金を数え、利子の一部にしか満たないそれを大切に懐にしまった。
「今日のところはこれで帰ります。結婚の準備は、いつでも取り掛かれるようにしています。王家に提出する婚姻申請の書類の準備はまだですが、婚礼衣装用の布は出来上がっていて、男爵位継承のための手筈も整っています。あとは、ソフィア様がうなずいてくれるだけです」
「……ごめんなさい」
「金貸しに謝らないでください」
ガストンさんは、またため息をついて部屋を出た。
ハールとの結婚を迫っているくせに、ガストンさんが威圧的になったことは一度もない。
父が生きていた頃と少しも変わらない丁寧な言動を続けてくれている。
ガストンさんは、私が心に決めた人を待っていると信じている。
でも、その人は私を救いに来ることはない。五年どころか、十年、二十年待っても来ない。私が死ぬまで待ち続けても現れないだろう。
仕方がないのだ。
そんな人、この世のどこにもいないのだから。
いや、それも正確な表現ではないかもしれない。
心に決めた人も、私に「待っていてほしい」と言った人も、はじめから存在しないのだ。
◇
私が「誰かを待ち続けている」ことになったのは、うっかり口を滑らせたせいだ。
父が亡くなって少しして、金貸しのガストンさんは自分の息子ハールとの結婚を打診してきた。
それを、私は断った。
当時からハールに恋人がいることを知っていたからだけど、断っても断っても、ハールは堂々と私に結婚を申し込み続けた。
そんな日々が二年続き、私はつい言ってしまった。
「私、心に決めた人がいるの」
そう言ってしまったのは、ハールに第一子が生まれたことを聞いたからだ。ただの勢いだった。口にした瞬間に後悔した。
なのに、ハールとガストンさんは納得してしまった。
……なぜ私に、そんな相手がいると思ったのだろう。
病弱な父の代わりに領地経営に必死で、男女の出会いの場になるような舞踏会にも行ったことがなくて、なのにどうしてそんな相手がいると信じたのか。
よくわからないながら、信じてくれたからそれでいいと思うことにした。
何か聞かれた時のために、一応は頭の中で「心に決めた人」のイメージは作っている。
イメージの元になったのは、オーレン。
どれだけ悩んでも、思い浮かんだのは彼一人しかいなかった。
オーレンをモデルにしたけれど、変なことに巻き込みたくはなかったから、別人になるように設定をいろいろ考えた。
でも、ハールとガストンさんは私の嘘を疑わないようで、今まで一度も詳しい話を聞こうとはしない。
肩透かしだったけれど、嘘を重ねずに済んでいるから助かっている。
オーレンは、私の幼馴染の一人だ。
父が開いていた学習塾に通っていた少年で、ハールと同い年だった。貧乏な家の三男で、文字を習ってそれを活かそうと頑張っていた。
まだ小さいのに昼間は働いて、夜は眠い目をこすりながら文字や計算を学んでいた。背が伸び始めると、我が家の護衛の騎士が剣を教え始めた。
手足が大きくて、歯が丈夫だったオーレンは、動きもとてもいいと褒められていた。
そうやって一日中頑張っていたから、学習塾にいるときはいつも眠そうで、いつもお腹を減らしていた。
だから私は「お父様の夜食」という口実で食事を用意した。貴族にしては切迫した経済状況だったけど、日常的な食事を振る舞うくらいはできたから。
別に、オーレンだけが特別というわけではない。
借金の返済や急な融通などの相談に来るガストンさんは、いつも息子のハールを連れてきていたから、ハールにも食事は振る舞っていた。
「お嬢様、こんな粗末なものを食べているの?!」
ハールに同情されて、逆に手土産にお菓子をもらうようになってしまったけど、その後も意地になって食事に誘い続けた。
「慣れると、それなりにおいしいね!」
そんなことも言われたけど、ハールに悪気はない。ちょっと加減ができないだけだ。一緒に食事をしていたオーレンがジロリと睨んでいたから、私は寛大にも許してやった。
食事中なのに、なぜか急にハールが脛を押さえて苦しみ始めたせいでもある。
あの時、いったいテーブルの下で何があったのだろう。
でも、そんな賑やかな食事は、とても楽しかった。
いつからか、オーレンは私が座ろうとすると、サッとやってきて椅子を引いてくれるようになったし、私が扉へ向かうと必ず開けてくれるようになった。
騎士たちが色々作法を教えているようで、私で実践していたのだろう。
だから、私もすまし顔で受けていた。
馬車から降りる時に手を借りたし、馬に乗る時にはオーレンの手を踏み台がわりにさせてもらった。
やがて、オーレンは私より背が高くなって、私がふうふう言いながら運んでいた本の山を軽々と持ってくれるようになった。
ボロボロだった服も、いつの間にか古いけれど上質なものになっていた。父や騎士たちが自分たちの服を分け与えるようになったからだ。
オーレンは、そういう「ちょっといい服」を着ても似合うようになっていった。
相変わらずハールとはよく話していたけれど、オーレンは私の前では口数が少なくなった。騎士たちに鍛えられた後は、いつも汗びっしょりになって地面に寝転がっていた。
私が手作りのお菓子を持って行くと、慌てて井戸の水を全身に被ってしまって、水を滴らせるひどい姿になりながら、とても美味しそうに食べてくれた。
でも、オーレンは父が亡くなる少し前にいなくなった。
その頃、我が家はさらに家計が悪化してしまって、騎士たちに暇を出した。
無償でも構わないと言ってくれた騎士たちを説得して、あちこちに紹介状を書いて全員無事に再就職することができた。
その時に、騎士たちはオーレンを連れて行った。
オーレンも一緒に行くと言った。だから私は、餞別として母の形見の宝石を渡した。
「きっとお金もたくさん必要になるだろうから、これを売ってちょうだい」
「だめですよ、お嬢様! これは受け取れません!」
「いいのよ。役に立ててもらえる方が嬉しいから」
「でも、これは亡き奥様の形見でしょう!?」
オーレンは覚えていたようだ。昔、一度だけ見せたことがあるだけなのに。それが嬉しかった。だから無理やりにオーレンの手に握り込ませた。
「あなたは、お父様の教え子の中で一番出世をしそうだもの。未来への投資よ。だから……頑張ってね!」
私はそれだけを言うのがやっとだった。
もっと、明るく色々と言おうと思っていたのに、声が詰まりそうになったから。
オーレンの手はとても大きい。
昔は小さくて痩せていて、ボロボロに汚れていて、怪我もいっぱいあったのに、いつの間にか分厚くて立派な手になった。
——きっと、オーレンは出世してくれる。
どんどん弱っていく父が語るように、オーレンは立派な騎士になる。何年もしないうちに、父が目を細めながら誇るような若い騎士になるだろう。
私がそっと手を離すと、オーレンは宝石をぎゅっと握りしめた。
昔、オーレンが学習塾に通い始めたばかりの頃に、夜食を振舞ってあげた時のような顔をしていた。
「……俺、絶対に出世します。必ずソフィアお嬢様と旦那様に恩返しをします。そうできる男になります」
オーレンは私の前で片膝をついた。
正式には、オーレンはまだ騎士ではない。これから騎士になる。でも私の前にひざまずく姿は、とても凛々しくてまぶしかった。
あれから七年。
騎士たちだけでなく、メイドたちにも暇を出した。広すぎる屋敷も手放した。小さな家に移って間もないころに、寝ついていた父が亡くなった。
ガストンさんは借金返済の相談と称して毎日様子を見に来るようになり、ハールは恋人と結婚せずに二児の父親となった。
そして私は、男爵位を継承するだけのお金がないまま、二十五歳になっている。
表向きは、心に決めた人を待ち続ける一途な女だ。
でも……そろそろ、本当に身の振り方を考えなければいけない。覚悟を決めなければ。