第7話
契約を交わした翌日。よく晴れ渡った空が広がる午前のこと。
かちゃかちゃと、目の前に揃いのティーカップが並べられていく。ふわりと漂う紅茶の香りは、王国の南部で採れる最高級の茶葉のものだと分かった。
染み一つない真っ白なテーブルクロスの上に、整然と並べられたティーセット。テーブルを挟むようにして私の向かいに座っているのは、お父様とお母様、そして、苛立ちさえ窺わせるような赤い左目でこちらを睨むお兄様だ。
お兄様の鋭い視線は、私に注がれているわけではない。私の隣にいる、クラウス・ハイデンに向けられたものだった。
クラウスは、今日も今日とて整った顔に妙に腹立たしいあの笑みを浮かべて、この場に流れる緊張感など微塵も気にしないと言った素振りで座っている。礼装よりはラフな黒のジャケットも、彼の黒髪にはまさにお似合いで、悔しいがどこからどう見ても好青年にしか見えなかった。
……ああ、最悪の事態になってしまったわ。
私もクラウスに合わせるようにしてにこにこと微笑みながらも、テーブルの下で握りしめた拳にさらに力を込めたのだった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
遡ること数時間前、珍しく早朝に目を覚ました私は、目覚めて早々、クラウスを撃退する方法を必死に考えていた。
昨夜は、お兄様の元から離れ、初対面の公爵令息と踊り、脅迫まがいの契約をする、という怒涛の一日を過ごしたせいで、私室に辿り着くなり就寝準備もそこそこに眠ってしまったのだ。
クラウスのこと、あまりに突拍子のない婚約話のこと、考えなければならないことが山ほどあったはずなのだが、眠気には抗えなかったのだ。
昨夜の話が本当ならば、今日、クラウス――もう、心の中では呼び捨てにすることにした――が私との婚約を申し込みにやってくるはずだった。
「婚約なんて、冗談じゃないわ……」
クラウスからしてみれば、お兄様が溺愛する私の婚約者になれば、お兄様の鼻を明かせるとでも思っているのだろうが、何が何でも阻止しなければ。
契約は契約なので彼と会わないわけにはいかないが、家族に婚約の話を持ち出されて家同士の騒動に発展する前に、あの男の考えを改めさせたい。
……とにかく、あの男と私の家族を引き合わせるわけにはいかないわ。
目先の目標は、まずはクラウスを家族に会わせないようにすることだった。家族には適当な話をつけて部屋に引っ込んでいてもらい、私は屋敷の前でクラウスを待ち構えておこう。そのまま彼を屋敷に上がらせずに、一旦ここから離れて話をしなければ。
そう決意した私は、早々に身支度を終えた後、屋敷の門の前でクラウスを待っていた。
彼は、昨晩予告した通りの時間にやってきた。ハイデン公爵家の紋が付いた、立派な馬車に乗って。
「……まさか直々に出迎えてくれるとはな。自分の身の程をわきまえているようで何よりだ」
馬車から降りて早々に放たれる嫌味な言葉を聞き流して、私は精一杯の笑顔を取り繕う。
「朝からあなたの顔を見なければならないなんて最悪の気分だけれど、待つには待っていたわ。さあ、まずは馬車に乗って。王都の公園でも見物しながら、少し話し合いましょう?」
私は私で、リアに頼んで手配してもらったクロウ伯爵家の馬車に視線を送りながら、彼を屋敷から遠ざけようと画策する。
素直に応じるとは思っても見なかったが、クラウスは呆れたように笑いながら私の前に詰め寄った。
「吸血鬼の頭では昨夜の話を理解するのが難しかったようだな。俺はお前の家族に用があるんだ。それとも、既成事実を捏造して無理やり婚約の話を進めるほうが――」
「――ちょっと、無闇にそんな風に呼ばないで!」
思わず背伸びをしてクラウスの口を手で塞ぐ。白昼堂々「吸血鬼」なんて口にする彼の気が知れなかった。本当に契約を守る気があるのだろうか、この男は。
クラウスは面倒そうに私の手を口元から引きはがすと、私の右手首を掴んだままに距離を縮めた。
「安心しろ。誰も聞いちゃいない。それよりさっさと門を開けろ」
顔は笑っているが声では凄んでくるあたり、やっぱり紳士の風上にも置けない男だ。思わず私も至近距離で睨み返す。
「契約を破る気はないけれど、いくら何でも婚約は話が飛躍しすぎよ。あなたは吸血鬼が嫌いなんでしょう? それなのに私を婚約者にするなんて、自分でおかしいと思わない?」
「馬鹿だな。俺がお前を真っ当な婚約者として扱うとでも? あくまでも飾りだよ、飾り」
当然そうだろうとは思っていたが、ここまではっきり言われると流石の私も苛立ちを隠し切れない。取り繕った笑みが引き攣るのを感じる。
「お飾りの婚約者と割り切るなら、お前ほど適任はいない。正体はどうであれ、お前は社交界の高嶺の花だ。そのお前を婚約者にするのは、そう悪い気分でもない」
「要は装飾品ってことね……」
吸血鬼を心底嫌っているからとはいえ、伯爵令嬢を装飾品呼ばわりできるその傲慢さにはほとほと呆れ果てる。ますます嫌悪感が増した。
「それに――」
不意に、クラウスの手が私の頬に伸びる。突然のことに驚いてしまったが、まるで何かを確かめるように私の頬に触れる彼の仕草に、疑念の方が増していく。
「何……急に」
「……お前には、触れられるんだ。どうしてかわからないが」
「どういうこと?」
私たち吸血鬼が、お伽噺の中の幻のような存在だと言いたいのだろうか。訳の分からぬクラウスの言葉に多少の苛立ちを滲ませて見上げれば、彼はふっと笑みを深めてようやく私から手を離す。紺碧の瞳はいつしか、愉悦の混じった目で私を見下ろしていた。
「お前は吸血鬼のくせに不思議な存在だな……。殺してやりたいが、興味深いのも事実だ」
まるで観察するようにまじまじと私を見つめてくる視線が不快で、ふいと視線を逸らせば、すぐにくつくつと笑う声が聞こえてきた。一人で楽しそうにしているが、私はちっとも愉快な気分ではない。
「とにかく、お前との繋がりが出来れば、婚約を通してお前たちクロウ伯爵家を監視することもできる。お前たちへの憎悪を差し引いても、俺にとっては利点だらけだ」
クラウスは私の反応を面白がるように、顔を覗き込んできた。紺碧の瞳はまるで子供のようにきらきらとしていて、正に、新しい玩具を見つけた子どもと言った様子だ。
「監視って……そんなことしてどうするのよ」
「それはもちろん、無闇やたらに人を殺したり苛んだりしていないか見張るのさ。やっぱり悪は見過せないよな。俺は神殿育ちの神聖な人間だから」
冗談交じりに笑う彼を前に、やっぱり溜息しか出て来ない。婚約云々を抜きにしても、この男とこれから顔を合わせなければならないこの先が思いやられた。
「神聖なお方だと言うのなら、安易に殺すなんて言葉を使わないでほしいわ。神様に見限られちゃうわよ」
「お前の口から神なんて単語が出てくるとはな」
終わりのない応酬を続ける私たちだったが、ふと、クラウスが私の背後を一瞥したのが分かった。
使用人の中の誰かが様子を見に来たのだろうか。そう思い振り返ろうとした私の腰を、突然にクラウスが引き寄せる。
「っ何を――」
「――フィーネ、お願いだ。俺は一目で君に恋に落ちてしまったんだ。君がいなきゃ生きていけない。この話、前向きに考えてほしい」
殆ど私を抱きしめるようにして、クラウスは歯の浮くような台詞を言い放つ。初心なご令嬢ならば、真っ赤になって倒れてしまいそうな甘さだ。
もしかすると私だって、クラウスの本性を知る前ならば、一端の乙女らしく胸をときめかせたのかもしれないが、今となっては苛立ちが増すばかりだ。
「ちょっと、離して……」
無理やりクラウスの腕から逃れようとするも、彼がそれを許してくれない。その理由は何となく察しがついていた。
恐らく、私たちの背後にクロウ伯爵家の使用人がいるのだろう。「お嬢様と公爵令息が抱き合っていた」と報告させるつもりに違いない。
相手がリアやレニーならば説得の余地があるが、追及は免れない事態になってしまった。これは面倒なことになったと思いながら、無理やりクラウスの腕から逃げ出し、背後に控えているであろう誰かに弁明しようと口を開く。
「誤解しないでほしいのだけれど――」
溜息交じりに言い訳を始めながら半身振り返ったその先で、その人は茫然と立ち尽くしていた。
どくん、と心臓が跳ねる。一瞬、時が止まったかのような衝撃を覚えた。
「――フィーネ、その男は、昨夜の……?」
「っ……お兄様」
よりにもよってこの場に一番居合わせてほしくない人が、私たちを見つめていたのだ。
お兄様は深紅の左目を目いっぱいに見開いて、私たちを見つめていた。
その表情は、驚きというよりも、まるで裏切られたと言わんばかりの悲愴なもので、これには思わず私も胸が詰まる。
「っお兄様、待ってください、これは――」
「――これはこれはノア殿。いや……義兄上とお呼びしたほうがよろしいか。昨晩は貴殿の大切な大切な妹君を譲ってくださってありがとうございました」
嫌に含みのある言い方に、お兄様の表情があからさまに曇る。お兄様には、昨晩勝手にクラウスと抜け出したことを叱られたばかりだ。その上、朝になって早々彼が訪ねて来るなんて、お兄様の逆鱗に触れてもおかしくない。
「……フィーネから離れてください、ハイデン公爵令息」
お兄様は、背筋も凍るような冷たい声で仰った。お兄様のどんな表情にも慣れているはずの私でさえ、思わず肩を震わせるほどに。
だが、クラウスは僅かにも怯むことなく、優雅な所作で私から手を離し、余裕たっぷりに笑んで見せる。
「これはこれは……まだ婚約前だと言うのに申し訳ない。ですが、どうしても気持ちが抑えられなくて」
「……まだ?」
ここまでお兄様の神経を逆撫で出来るのも、ある意味才能だ。基本的に温厚で、他人に興味を示さないお兄様がお怒りになることなんてほとんどないのに。――それこそ、私の話題以外では。
「おや? フィーネから――おっと、失礼、フィーネ嬢から聞いていませんか? 今日、こうしてお屋敷に伺ったのは、フィーネ嬢との婚約のお許しをいただきに来たからなのですが……」
「婚、約……? フィーネと……貴殿が……?」
その一言で打ちのめされたように赤い瞳を揺らがせたお兄様は、どうしてか泣きそうに見えた。あまりに悲痛なその表情に、思わず私は視線を逸らしてしまう。
……どうして、どうしてそんな表情をなさるの、お兄様。
私は、ただの妹なのに。お兄様は、どんなに私を溺愛してくださっても、私のお兄様なのに。
16年の人生で、何度も何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、咄嗟に頭の中に巡らせる。
「……本当なのか、フィーネ」
お兄様らしくない、縋るような声に、私はびくりと肩を震わせた。お兄様の顔がまともに見られない。
「本当なのか?」
静かな声だったが、私には、まるで責めるような言葉に聞こえた。
門を開けて私たちの前に歩み寄ったお兄様のお顔を恐る恐る見上げれば、初夏の風に白銀の髪が煽られ、普段は隠れて見えないお兄様の赤紫の右目が露わになる。
――やめて! お兄様! そんなことしたら、お目目が見えなくなってしまうかもしれないわ!
――別にいいんだよ、僕の目なんて。これで、フィーネが笑ってくれるのなら。
もう十年も前の、お兄様の右の瞳が赤紫に変わってしまったあの日の記憶が、鮮やかに蘇る。どくどくと、耳の奥で心臓が暴れている音がした。
もともとは、綺麗な赤色の瞳だったのに。お兄様の美しい瞳の色を、右目の視力を、私があの日に奪ってしまった。
お兄様の右目は、彼が私に囚われている証だ。溺愛というには度が過ぎている、彼が私に向ける愛の証だった。
……解放、して差し上げなければ。お兄様を、私から、一日も早く。
どくん、と再び心臓が大きく跳ねるのと同時に、ここ数年、ずっと燻っていたその想いが、決意に変わるのが分かった。
……そうだ、解放して差し上げなければ。お兄様の幸せを願うのならば、私という呪縛から、解き放って差し上げなければ。
決意という域を超え、最早強迫観念のようにも思えるその想いを噛みしめながら、私は一度だけ深呼吸をして、そっとお兄様を見上げた。
「ノア殿、そう怒らないでください。貴殿の大切な妹君と俺は――」
隣で好青年ぶった弁明を始めるクラウスの言葉を遮るように、私はお兄様の前でゆったりとクラウスの腕に体を絡みつかせた。
これには流石のクラウスも驚いたようで、お兄様だけでなくクラウスまで私を見やる気配がしたが、構わずに私はお兄様だけを見つめ続けた。
「……お兄様、私、この方と婚約したいの。昨晩踊って、一瞬で悟ったわ。彼が、私の運命の人なんだって」
お兄様は、何も言わなかった。何も言わずにただ、私を見ていた。
風に煽られて露わになった両の目に浮かぶ感情は、量り知れない。絶望という言葉も浅いと感じるほどの翳りが差す。
縋るようで、怒っているような、見ているこちらが切なくなるほどの、寂しい瞳だった。
お兄様が今考えていることの全ては分からない。分からないけれど、ただ一つ確かなことは、たった今私が放った言葉が、お兄様をひどく傷つけたということだけだ。
……ごめんなさい、ごめんなさい、お兄様。でも、こうでもしなければ、あなたはずっと、私に囚われたままなのでしょう?
指先の震えを誤魔化すようにクラウスの腕に添える手の力を込めて、何でもないように笑ってみせる。
「ねえ、だからお父様とお母様に紹介したいのです。いいでしょう? お兄様」
泣き出したいような気持ちをぐっとこらえて、私は恋に浮かれる少女を演じてみせた。お兄様の瞳が一層翳っていく様を見ると、心の奥が引き裂かれるようだ。
永遠にも思える数十秒間の沈黙が、私たちを支配していた。
やがて、お兄様の瞳が怒りとも憎悪ともとれる感情を宿したかと思うと、感情のこもらない声で笑った。
「……分かったよ、他ならぬ君の頼みだからね」
お兄様そのまま私たちに背を向けると、振り返ることも無く私たちを屋敷へ招いた。
クラウスは私とお兄様のやり取りを不審に思っていたのだろう。訝し気な表情で私を見下ろしてきたが、何も言えなかった。
私のその反応を見て、クラウスも今は追及しないことに決めたようで、文句のつけようがない優雅な手つきで私をエスコートしたのだった。
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