第5話
ハイデン公爵令息に導かれるままに、私は広間の中央へ足を運んでいた。私と公爵令息を見た人々は、自然と道を開けていく。それだけ注目されているのだ。
「あなたのお兄様は相当過保護なようだ、フィーネ嬢」
世間話をする自然な物腰で、ハイデン公爵令息は笑う。
エスコートのために繋がれた手が、神殿育ちの彼の力で爛れはしないか気が気ではない私は、ここでもやはり引き攣った笑みを浮かべてしまった。
「え、ええ……二人きりの兄妹ですもの。自然と仲も良くなりますわ」
「羨ましいな。俺は一人っ子だから、兄弟というものに憧れます」
音楽が始まる合図に合わせ、私と公爵令息は互いに礼をする。周囲の人々の視線が肌に刺さるようだった。
「ましてや、あなたのような麗しい令嬢が妹であれば、ノア殿の過保護っぷりにも頷けますね」
踊りながら、笑うように彼は告げる。
初対面二人の踊りにしては、実に順調な滑り出しだった。お喋りをしている上に、緊張して身が硬くなっているはずなのに、不思議なくらいに軽やかに足が動く。
お兄様やレニー以外と踊るのは初めてだが、どうしてか面白いくらいに息が合うのだ。多分、公爵令息のリードが上手いのだと思う。
その事実に妙な悔しさを覚えながらも、私は当たり障りのない笑みを浮かべた。
「……お上手ですこと」
「嫌だな、本気で褒めているんですよ。少なくとも見目はこの上なく美しいと。……その白い肌の下に流れている血が何色かは知りませんが」
何の前触れもなく、耳元で囁くように告げられたその言葉に、背筋が凍り付くかと思った。思わず目を見開いて公爵令息を見上げてしまう。
その視線を受けた彼は、意味ありげな笑みを深めるばかりだった。
……まさか、彼は私が吸血鬼だと気づいてるの? 悟られるようなことは何もなかったはずなのに。
「あなた方のような存在も、そんな風に怯えたりするんですね。――滑稽だな」
優雅に私をリードする所作とは裏腹に、感情の感じさせない冷え切った声で、彼は告げた。
広間に流れる音楽は、いつしか耳に届かなくなっていた。ただ機械的に足を動かし、動揺を悟られないよう努めることに必死だった。
「……ハイデン公爵令息は――」
「――クラウス、とお呼びください。フィーネ嬢」
甘く笑っていたが、紺碧の瞳は獲物を捕らえるかのような鋭さだった。思わず息を呑みながらも、何とか問い直す。
「……クラウス様は、なぜ私に声をおかけになったのです?」
「それはもちろん、あなたがこの会場の誰よりも美しいご令嬢だからですよ」
クラウス様は隙の無い笑みを見せたが、嘘だとはっきりと分かった。間違いなく、彼は私の正体に気づいているか、あるいは怪しんでいるから近付いてきたのだ。
ときめきとは無縁の、命が危機にさらされる緊張感で脈が早まる。耳の奥で煩いくらいに鼓動が鳴っていた。
……早く、早く終わって頂戴。
途中からは、彼の問いかけにも上の空で答え、ただただ音楽の終わりを待っていた。
……これが終わったら、真っ先にお兄様の元へ戻ろう。
その決断に縋るように、私はただただクラウス様とのダンスの時間に耐えた。繋いだ手が痛むような気がするのは私の思い過ごしだろうが、もう一秒たりとも彼に触れていたくなかった。本当に、封印されてしまいそうな気がする。
ようやく訪れた音楽の終焉を機に、私もクラウス様も礼をして、踊りを終えた。
「……では、私はこれで。大変楽しかったですわ」
自分でも驚くほど覇気のない声でそっけない挨拶をし、早速お兄様の元へ戻ろうとしたのだが、クラウス様の腕がそれを許さなかった。
「そう急ぐことも無いでしょう。どうです、涼むがてら少し庭でも散歩しませんか? あなたのお兄様もお忙しいようですし」
「っ……」
クラウス様の言う通り、遠目に見つけたお兄様は数多のご令嬢たちに囲まれていた。今まで私がいたからお兄様にお声がけするのを躊躇っていたご令嬢たちが、ここぞとばかりに押し寄せているのだ。
きっと、未だ婚約者のいないお兄様に見初めてもらいたいと考えているのだろう。吸血鬼であるお兄様が、人間の彼女たちの中から婚約者を選ぶとは思えないが、それは彼女たちのあずかり知らぬ事情だ。
「このままあなたを一人にするわけにもいかない。さあ、行きましょうか、フィーネ嬢」
半ば強引にクラウス様に手を引かれ、泣きたいような気持ちになってしまった。
これで、本当に封印でもされたらどうしよう。
……お兄様とお会いするのがこれで最後になってしまったら。
心臓を抉られるような冷たい恐怖を感じた。ここは、騒ぎを起こしてでも、クラウス様から離れるべきだ。
……そうだ、そうしましょう。命に比べれば、世間体なんて二の次だもの。
咄嗟にそう判断した私は、思わずその場に立ち止まり、声を上げようとした。
だが、続くクラウス様の囁くような言葉が、私の叫びを許さなかった。
「――騒いだら、お前の一族の秘密をばらすぞ、吸血鬼フィーネ・クロウ」
先ほどまでの穏やかな貴公子の姿はどこへやら。微笑みつつも、同一人物とは思えない冷え切った声でクラウス様は告げた。
……ああ、彼は分かっているのだわ。私の――いえ、クロウ伯爵家の秘密を。
怖い、怖くて仕方がない。本当にこのまま封印されてしまいそうだ。
だが、ここで泣くのは私が吸血鬼であると認めたも同然。何より、人を脅すようなこの男の言葉で涙を流したくなかった。
……泣いちゃ駄目よ。伯爵令嬢フィーネ・クロウの涙は白金より貴重なのだから!
自分を奮い立たせるように大袈裟な自画自賛をすれば、自然と高飛車な笑みが浮かんだ。
「……何のことか存じ上げませんが、お散歩くらいならお付き合いいたしますわ」
クラウス様はその反応が意外だったのか、一瞬面食らったような素振りを見せたが、面白がるように笑みを深める。
「そうこないとな」
そのままクラウス様が私の手を引く。さながらそれは処刑台まで私を導く鎖のようだった。
最後に一度だけお兄様の方を振り返れば、一瞬だけ、彼の赤い左目と目が合った気がした。
……これを最後のアイコンタクトになんてさせないわ。
心の中でそう決意し、お兄様を安心させるように微笑んで、私は広間を後にしたのだった。
次話は本日の22時ころ更新予定です。