第14話
けぶるようなぼんやりとした視界の中、幼い私は小さな庭園を走り回っていた。
ああ、これは夢なのだ、と分かる。目覚めればいつも忘れてしまう、大切な大切な夢なのだ、と。
『はやく! はやくこっちにいらして! お花が咲いているのです!』
幼い私はまだ小さな足で懸命に駆けまわっていた。青々とした芝生だけが、妙に鮮明に浮かび上がっている。
『フィーネさま、お気をつけてください。転んだりしたら大変です』
背後から追いかけてくるのは、少女と見紛うような愛らしい姿の少年だった。私は彼のことが大好きで、彼が心配してくれるのが嬉しくてわざとお転婆な振舞を繰り返していたのだ。
『はやく、はやく!!』
少年の忠告も聞かずに私は芝生の上にしゃがみ込む。そこには、小さな薄紅色の花弁が無数に降り積もっていた。
『みて、きれい! おにわの川の中にもながれていたわ』
『本当だ……散った後もきれいなんですね』
興味深そうに花弁を眺める少年を前に、幼い私は小さな手で薄紅色の花弁をかき集めると、ぱっと少年の頭上に舞わせた。小さな花弁が、ひらひらと私たちの周りに舞い落ちる。
『フィーネさま!』
驚いたように少年は声を上げる。そんな風に窘められるのさえ嬉しくて、やっぱり私はくすくすと笑うのだった。
『きれいだわ、とってもきれい! まるで、花よめさんみたいよ!』
きゃっきゃとはしゃぎながら、私は少年の白銀の髪についた薄紅色の花弁にそっと手を伸ばす。少年は、どことなく気恥ずかしそうに私から視線を背けていた。
『ぼくはこれでも男です。花嫁なんて、そんな……』
少年らしくいじけたかと思うと、今度は彼が私の髪に手を伸ばす。
その指先には薄紅色の花弁が摘ままれていて、彼はやがて天使のような愛らしい笑みを見せた。
『……花嫁さまは、フィーネさまのほうです。フィーネさまのほうが、ずっとずっとお似合いです』
『ほんとう? わたし、花よめになれる?』
『もちろんです』
きゃっきゃと再び声を上げて笑うと、幼い私は目の前の少年に抱きついた。
『それならわたし、あなたの花よめになりたいわ! ね、いいでしょう? わたし、あなたのこと、とってもだいすきなんだもの』
少年に抱きついたまま笑えば、彼は幼さに似合わない切なさを滲ませた目で私を見下ろした。深い紅色の両目は、確かに私だけを映し出していた。
『……ぼくは……フィーネさまを花嫁にできるような、きれいな生き物じゃありません』
少年の言葉は、幼い私には難しくて、私はにこにこと笑ったまま、少年の顔を見上げていた。少年はやっぱり切なそうに微笑んで、そっと私の頭を撫でる。
『でも……ぼくもフィーネさまがだいすきです。なによりも、だれよりも、フィーネさまがすきです』
『ほんとう!? うれしい!! じゃあ、やくそくね! おおきくなったら、フィーネを花よめさんにしてね!』
華やいだ声を上げる私に根負けしたように、少年はふっと笑った。
『……わかりました。約束します。いつかきっと、あなたをぼくの花嫁に。フィーネさま』
『ええ、やくそくよ――』
幼い私は少しだけ背伸びをして、少年と額をすり合わせる。
『――ノアおにいさま!』
♦ ♦ ♦
「……お兄、様」
譫言のような自分の声に、はっと目を覚ます。目覚めたばかりの視界に飛び込んで来るのは、見慣れたベッドの天蓋だった。
どうやらいつもより早い時間に目覚めてしまったようで、寝室の中にリアの姿はない。薄い絹のカーテン越しに見る光もまだ薄ぼんやりとしていて、早朝と言っても差し支えないような時間だった。
上体を起こした拍子に、ぽたぽたと涙がシーツに零れ落ちた。特別悲しいわけでもないのに不思議だと常々思うが、もう慣れたことだった。
時折、私は夢を見る。とても懐かしくて、大切な夢を。
でも、目覚めたときには何一つ覚えていないのだ。夢から覚めた私に残るのは、決まって透明な涙が数粒と、「お兄様」と譫言のように呼ぶ自分の声だけ。
……何かとんでもない夢を見ていたら目も当てられないわ。
思わず自分の前髪をぐしゃぐしゃと乱しながら、得体の知れない夢を忌々しく思った。こんな姿、お兄様に見られるわけにはいかない。
もっとも、クラウスとの婚約話が持ち上がってから既に三週間が経とうとしているが、お兄様とはろくな話が出来ていなかった。
クラウスが吸血鬼に虐待されていたという過去を聞いた今、お兄様に伺わなければならない話は山とあるのに、このところは顔を合わせることすら難しいのだ。
明らかに、お兄様は私を避けている。食事もお一人で摂るようになってしまわれたし、廊下ですれ違っても、憎悪とも殺意ともとれるあの翳った瞳で取り繕ったような微笑みを浮かべるばかりだった。
自分で言うのもなんだが、やはり、お兄様には私の婚約の話が相当堪えているようだ。裏切られたと言わんばかりのお兄様のあの眼差しを思い出しては、息が出来ないような苦しさに襲われてしまう。
でも、この息苦しさに耐えなければ。耐えて耐えて耐え抜いて、いつの日かお兄様がみんなから祝福される幸せを見つける日まで、私はどんなことでもしてみせる。その過程でお兄様を傷つけ、お兄様が私を厭うようになったとしても。
「お兄、様……」
そっと自らの左手の薬指に口付ける。お兄様が私の手に口付けるときは、昔からずっと決まってこの場所だったのだ。
……いつの日かこの指に、お兄様と揃いの指輪をつけられる日が来るのだと、幼い私は信じて疑わなかったわね。
その無邪気さが、今となっては憎らしくも思う。何も知らない無垢な子供というのは、ある意味一番恐ろしいのではないだろうか。
今となってはもう、願いを口にすることすら罪なのだと分かっている。
だから、私は決めたのだ。お兄様の幸せが私の幸せ、お兄様の罪が私の罪だ、と。この想いは、愛より深い決意に変えて、胸の奥底に沈める他にないのだから。
この想いは、誰にも内緒。世界で一番大好きな、あの人にでさえも。
乱れた黒髪を掻き上げて、そっと薄いカーテンを割り開く。まだ淡い朝日が、きらきらと室内を照らしていた。
光の加減によっては朝日までも白銀に見えて、清々しい朝とは裏腹に、心の奥に沈めた熱が、黒く濃く、私の心を灰にしていくような気がしていた。