第9話 野生の王国
獣姿の少年はゆらゆらと揺りかごのような気持ちのいい揺れで覚醒を促され、 固く閉じていた目蓋をゆっくりと開いた。
長いまつ毛の下から、ガラス玉のような萌葱色の猫目が覗く。
久しぶりに見た前世の夢を思い返しながら、彼はしばらくの間、呆けたように短い瞬きだけを繰り返す。
だがやがて「夢を見ていたということは寝ていたのか」と至極当然のことに思い至り、うつ伏せになっていた体をむくりと起こした。
ふぁあと鋭い牙を備えた口で、大きな欠伸を一つ。
両手を万歳して背中から大きくのけぞり、伸びをした。
それから、少年は寝床兼枕になってくれていた、ふかふかの黒い鬣を撫でる。
少年を背中に乗せていた獅子はサクサクと獣道を歩き続けながらも、一瞬ちらとだけ確認するように振り返った。
少年に向けられた彼の左目はいびつな形をしている。
ずっと昔に何者かの爪で縦に切り裂かれたような、そんな生々しい傷跡がある。
『お前の、食ったらその場で爆睡という癖、どうにかならんのか』
獅子は顔を元の方向に戻しながら小言を言う。
どうやら蜘蛛を狩って、身を腹一杯食べたあと、その場でこてんと寝てしまった少年を獅子が背中に乗せて巣に運んでくれているという状況らしい。
『うーん……どうにもならんなー。食べたら眠くなるのは生き物の性だもの』
『その性とやらには、野生で生きていくための危機管理能力は含まれていないわけか』
『含まれてるとも。少なくとも気配を察するのは、クロイツより得意になったから。だから今日は僕が先に獲物を仕留められたわけでしょ?』
ニッシッシと牙を見せて笑う少年。
クロイツと呼ばれた獅子は鬣と同様の真っ黒な眉の根を寄せて、獣の身ながら器用に渋面を作った。
彼の顔は獅子というには鼻筋や目元の堀が深く、鼻もへばりついたように低く、薄目で見るとまるで人の顔のようだ。
ただ、顔は肌色というよりは茶色に見える毛で覆われているし、ネコ科らしいヒゲも生えている。
近くで見る分にはそれなりに獣らしい顔にも見えるのだが、こうして表情筋を使ってコミュニケーションをとっている時は人と話しているような錯覚に陥るときもある。
『気配も何も、お前はただクロの後から来て、小賢しくクロの獲物を横取りしただけだろう』
『まあ、そうともいうね』
言いながら少年は、クロイツの大きな頭の鬣をかき分けて、首回りをコリコリと掻いてあげる。
すると気持ちいいのか、すぐにゴロゴロとクロイツの喉が太く鳴った。
ここを掻いてあげると、彼は弱い。小言も言わなくなるしね。
「可愛い奴め」と悟られないように、少年は小さく笑みを作った。
巣に着く頃には、きっと機嫌を直してくれるはずだ。
東京の高層ビルほども高く立ち並ぶ木の上で、風が上空の葉をこすってざわざわと鳴る。
はるか上空の樹上でにょろっとした蛇に似た半透明の軟体生物が枝と枝の間を渡って移動している。
蛇のようなとは揶揄したが、前世の蛇とは比べるべくもない。
この森では木も蜘蛛も蛇も、前世とは比較できないレベルで大きい。
この小言の多い獅子も、マンティという種族の中ではまだ子供サイズで、親マンティとはクマとアフリカゾウくらい体格に差がある。
と、歩いていた獣道の横から、ズシンズシンという地響き足音が聞こえたので、クロイツがふいに立ち止まる。
体が大きいのは、トカゲもまた然り。
木々の間を縫って悠然とした足取りで現れたのは、クロイツの十数倍はあろうかという巨体のトカゲ。
頭と背中がゴツゴツとした岩のような鱗に覆われており、まるで岩山が動いているようだ。
クロイツと少年は、踏み潰されないくらいの距離で待機してそのイワトカゲが獣道を横断するのを待つ。
トカゲの尻尾がのろのろと道を渡りきると、クロイツはまた巣に向かって続きを歩き出した。
前世的にいえば、踏切で電車の通過を待つときに似ている。
あのトカゲは、体は大きいが気性が穏やかな種だ。
こちらから攻撃をけしかけて怒らせなければ、とくに害になるものではない。
イワトカゲは滅多に移動しないし、狩りもしないが、動きがあったときには今のように侵攻を妨げないよう通過を待つのが慣例だ。
別に体の小さい生き物がいないわけではない。
体が小さくても強い種類もいるし、数が多く小賢しいものが多いので、小さい生き物も警戒しなくてはいけない。
ただこの森に限って言えば、生き物という生き物皆大きい。
小さい生き物と言っても、前世でいう犬猫サイズがいるくらいで、それ以上小さい生き物はあまりこの辺りでは見かけたことがない。
転生当時は有名な某恐竜映画の中にでも転生させられたのかと絶望したものだ。
しかも周りはライオンのようでライオンでない、巨大な肉食獣が四六時中跋扈しており、それが己の親だと理解するだけでもかなり時間を要した。
そこから考えれば、ずいぶん成長したものだと自分でも思う。
少年は体のサイズ的だけで言えば、この森では圧倒的な弱者の部類だ。
だが今のような森特有のタブーや慣例を理解し、手を出してはいけないものと手を出すべき獲物の区別がつけられ、敵対生物の縄張りに踏み込まない方法を覚えれば、彼でもこの森も存外生きやすい。
獲物が豊富かつ雑食で食事には事欠かないし、山から流れてくる川と滝のおかげで乾くこともない。
バランスのとれた、動物たちだけの楽園と言ってもいい優良物件である。
まあ、だからと言って、食っちゃ寝するほど油断していい理由にはならないのだが。
『 ……ん?』
しばらくクロイツの草を踏む音だけを聞きながら、瞑目して記憶を辿っていた少年だったが、不意に目を開き、尖った耳をピクリとたてて振り返る。
クロイツも同じ気配に気が付いてか、足をピタリと止めて立ち止まる。
少年は鼻をくんくんくんと鳴らして匂いを嗅ぎ、耳をヒクヒクと小刻みに動かして、気配の方向を探った。
『んー……なんだろう。なんか来たね……知らないのが』
見ると少年と同じように気配を探っていたらしいクロイツと目があった。
『臭いはトカゲに似ているが……妙な気配が混じっているな』
『はい、見に行ってきてもいいですか』
挙手して聞くと、クロイツがジロリと少年を見る。
『行かない選択肢がお前にあるのなら、止める気にもなるがな』
『まあ、ないけども』
完全にワクワク顔の少年である。
止めても止まらないことはわかりきっているのか、クロイツがため息をつく。
少年を背中に乗せたまま、くるりと体の方向を変えて翼を広げ、クロイツは渋々といった様子で離陸したのだった。