第22話 追跡と結界
エルメルはとぺろりと実を平らげてしまった。
食べ足りないが、満足感は強い。
手や口周りについた果汁を舐めながらジハイルを見上げた。
ジハイルはまた物思いにふけっているのか、木の実を半分ほど食べたところで手が止まっていた。
「じぃじ、たいちょぷ?」
発声法で声をかけるが、ジハイルは「ああ」と返事をしたものの、明らかに上の空だ。
「森を出るにはまだかかりそうよな」
『うん、たぶん。僕、ここはまだ来たことがある範囲かなぁ』
答えてエルメルは、空を仰いでくんくんと鼻を鳴らす。
『人の匂いもしないしね』
「……匂いか……。匂いはまあ、しないかもなぁ」
パチンと薪が爆ぜて、火の粉が舞う。
『なんで? じぃじからは匂いがするよ』
「結界……というのか、人里とこの森との間には魔力の壁がある。だからお前さんの言う匂いも気配も、この森には届きはしない」
『そうなの!?』
長年の疑問がようやく一つ解決した。
エルメルは自分を中心として、周囲にどんな動物や魔物が何匹程度いるのかまで、割と遠くまで正確に嗅ぎ分けられる。
その能力で広範囲を索敵しながら森を度々徘徊しているというのに人間の気配を風の中に感じたことすらなかったのは、そういうわけだったのか。
『じゃあさ、匂いがしないだけですぐ近くの可能性もあるってこと?』
「さてな。それがわからんのが結界だ。しばらくはワイバーンの血の匂いを追うしかなかろうな」
ワイバーンという魔物は、この森ではちょっと珍しい。
それが手傷を負って血を流しながら飛んできたわけだから、それを遡れば方角はわかる。
だが逆を言えば、血の匂いが消えないうちは方角がわかるというだけなので、時間がたって匂いが消えてしまうとどうにもならない。
数日はどうにかなるだろうが、一ヶ月とかのレベルになると、エルメルの鼻でも追えなくなる可能性が高い。
そうなる前に結界を抜けたいところだ。
「まあ、そう難しく考えるな」
『でも……結界はどうやって抜ける? やっぱり匂いが消える前に空を飛んで追っかけた方が早いんじゃない?』
エルメルはこの三日間一度も飛んで移動はしていない。
せいぜい方向を確かめるために飛んだくらい。
問いかけに、ジハイルは少しだけ考え込んでから首を横に降る。
「いや、やはり飛ぶのは無しにしよう。知らずに結界に踏み込んでしまうとやっかい極まりない」
『なんで?』
「歪みにはまってしまうと、最悪脱出できない恐れがある」
ジハイルによると、自然発生型のこの森の結界は魔力の壁とは言っても実際は膜のようなもので、その日の天気や風向き、季節によって毎日細かく形や範囲を変えるやっかいな代物らしい。
特に風や陽光を遮ることのできない空中はその影響が顕著で、ひどい日は結界の膜と膜がぶつかりが「歪み」という異空間への出入口を作ってしまうらしい。
万が一にも歪みに飛び込んでしまったが最後、見えない上にランダムに閉じたり開いたりする出口を見つけられるのは、1時間後か十年後か、下手したら一生帰ってこられないかも、とのこと。
『ゆえにできるだけ固まって地上を歩きたい。結界に入ったら、今話しているこの距離でもはぐれることもあるでな」
ジハイルとエルメルの間の現在の距離は、焚き火を挟んでいるだけのごく短いものだ。
ごくりとエルメルは喉をならす。
「まあ、君がこの辺りまで来たときには何も問題がなかったというし、まだ問題ないとは思うが念のためな」
『そうかぁ』
「そういうわけで……」
と、急にジハイルが口ごもる。
エルメルが首をかしげて「じぃじ?」と問うと、ジハイルはエルメルに背後の大樹を見上げる。
少年もつられて振り返り見上げた。
「どうしても一緒に来るなら、彼にも近くに来て欲しいのだが……」
熊をも抱えられそうな太い大樹の枝の上で、金色の目がギラリと光った。
ゆっくりと上半身を起こし、覗き込むようにこちらを見下ろした獅子の瞳が鋭くジハイルを睨む。
ジハイルが少し怯んだように、わずかに息を飲むのが聞こえた。
そのジハイルの様子を見て、エルメルは「すごいな」と正直に思う。
大樹の枝は太くて大きいとはいえ、根元にいるエルメルたちから見ればかなりの高さにある。
しかもその上に乗っているのは夜の闇に溶け込む鬣の持ち主。
だというのに、それに睨まれて怯むということは、顔の表情まではっきり見えているということにならないか。
だとすれば、目がいいなんてもんじゃない。
もちろんエルメルにも見えているが、それは野生動物特有の能力か何かだと思う。
少なくとも前世の記憶の中にある人間という種族の常識で言えば、ありえない。
まあ以前の世界よりも数段危険な世界だと転生前に聞いてはいるし、この世界の人類的には必須スペックなのかもしれないが。
やがて樹上でむくりと全身を起こし、樹の幹を音もなく、するすると伝っておりてくる黒い鬣を有する有翼の獅子。
いうまでもないーークロイツだった。
『やるな。貴様に気付かれるとは思っていなかった』
同じことをクロイツも感じたらしい。
どすんと降りてくるなり、クロイツは鼻を鳴らして歯を見せて笑う。
『あまりに貧弱ならスキを見て食ってやろうかと思ったのに、雑魚は雑魚でもまあまあの雑魚だな』
間近で邪悪に笑う獅子の顔。
ジハイルの利き手がわずかに浮いて、傍においた剣と体の間をうろうろと行ったり来たりした。
見るからに戦士という出立ちのジハイルだ。
マンティコアという獰猛な獣を前にして、丸腰でいることに強烈な不安を抱かないはずはない。
それをわかっていて、わざわざ挑発するクロイツの性格の悪いこと。
なんならジハイルが切りかかってくるのを、今か今かと待っている節すらある。
『……怖いから。ニヤニヤしないで』
エルメルが肘で胴体をどついて嗜めると、クロイツは悪びれもせずカッカッカッと喉を鳴らして笑う。
『これは近くにいた方が面白そうだ、時々遊んでやる』と言いながら、地面の硬さを確かめるように焚き火の周りをうろうろと徘徊し始めた。
「それで……彼はなんと……?」
『え? えーっと、近くにいてもいいみたいな?』
ニュアンスだけ伝えると、ジハイルは「そうか」とほっと胸をなで下ろす。
ジハイルはクロイツとは念話ができない。
貧弱だとか食ってやるだとか雑魚雑魚言った挙句、近くに来た理由がジハイルを弄びたいからだということは、やっぱり伝えない方がいいだろう。
エルメルは空気の読める子なのだ。
うろうろ歩き回っていたクロイツは焚き火から少し離れたエルメルの後方を自分の寝場所と定めたようで、ごろりと寝そべった。
くあっと大きな欠伸を一つして動かなくなる。




