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第10話 年老いた来訪者

異様に佇む眼前の森を、その老人は目を見開いて見ていた。


この世に生まれ落ちて七十年余り、こんな巨木は見たことがない。

人生の酸いも甘いも噛み締めてきた自分のような老人ですら、そう感じてしまうほどの巨木がその森にはそびえ立っていた。


一本だけというのではない。

幹に枝に葉っぱにと何から何までサイズの違う木の化け物はそこかしこに立ち並んでいる。

森全体がそんな具合らしく、まるで小人族にでもなったかのような錯覚に陥ってしまう。


全身を煽る激しい風に放り出された手足がぶるんぶるんと弄ばれるのを感じながら、白いひげを顎に蓄えた老夫はぐっと己の歯を食いしばる。


時間があれば、ぜひともじっくりと鑑賞したい心持ちだ。

だが生憎と、現在はコントロールの効かない空中遊泳の最中で、木の一本一本を眺めている余裕は皆無だ。

藍色のローブを纏い鉄の甲冑を身につけた老夫は今、彼の国ではワイバーンと称されるどう猛な野生の人喰い魔獣に抱かれて、巣へと運ばれている最中だった。


ワイバーン。

乾いた土のような色をした鱗、体の倍はありそうな大きな双翼、骨張ったグロテスクな細長い顔と大ぶりな爪を有する足。

ドラゴンの亜種と言われているが、見た目は地味だし体つきは貧相だ。

羽と足のある蛇と比喩した方が適切かもしれない。

そんな成りをしてはいるが、飛行能力や素早さとあいまって並みの冒険者では束になっても太刀打ちできない類の魔獣でもある。


ワイバーンは、老人の背中から腹にかけた胴回りを、甲冑ごと爪でガッチリと掴み飛行をしていた。

甲冑がなければとうの昔に爪が内臓まで刺さってしまっていたかもしれない。

爪と甲冑が擦れるガチガチという音が耳に触る。

ただし老夫の体は無傷とは程遠く、顎に蓄えた白い髭は血と土で酷い色になっているし、襲撃時に折られた左足が風に煽られるたびに激痛を発し、歪んだ鉄甲冑が体に食い込んで時折息すらままならない。

かろうじて生きている、という状態が適切だろう。


飛び降りるには高すぎるし、巣に帰る様子だったので死んだふりをして逃げ出す機会を待っていたが、予想以上に人里から遠く離れ、未知の森に入ってきてしまった。

そもそも肝心の逃げ足も折れてしまっている。


「これはもう無理だ」と、老夫は心の中で覚悟を決める。


人里から近い巣に生き餌として連れて帰るというのであれば、可能性は低くとも生還の道はあった。だが、こうなってしまうと例え無傷だとしても、生還の見込みは万に一つもない。


老人はワイバーンを刺激しない程度に身動いで体勢を整える。

幸い手足は動かせるし、残り少ない魔力で攻撃をすれば、爪先くらいは開いてくれるかもしれない。

生きながらにして食われるくらいなら、いっそここで落ちて即死した方がマシというものだ。


老人は老いてしわがれた右手に、なけなしの魔力を集中させ始める。


その時だった。

急に下から突き上げるような突風が巻き起こったかと思うと、直後、鈍い衝撃が続いて頭上のワイバーンから甲高い悲鳴が上がった、それを合図に景色が一気に反転する。

何が起きているのかわからないまま、体を縦横無尽に振り回された。

三半規管がどうにかなってしまいそうだ。


飛行が安定し、激しい揺れが治るのを待って、老人は首を捻ってワイバーンを見上げる。


見ると、ワイバーンが大量の血を体から流していることがわかった。

背中の翼を羽ばたくたびに、赤い飛沫が雨のように降ってくるので、おそらく傷ついているのは背中側だろう。

そこでようやく、老人はワイバーンが何か別の生き物に襲われているという事実に思い至る。

ある程度経験をつんだ冒険者のパーティー七人ですら歯が立たなかったあのワイバーンが、一目散に逃げるほどの相手がすぐ近くにいる。


ビュービューと鳴る風切り音で、周囲の音はうっすらとしか聞こえない。

だが、風音の中に一瞬獣の咆哮のようなものが聞こえた気がして、視線だけをかろうじて向ける。

鞭のようにしなる黒い尾っぽのようなものが閃き、頭上のワイバーンを横薙ぎにする。

衝撃はあまりなかった。

ただ、切り落とされたワイバーンの土色の片翼が眼下へくるくると回りながら落ちていくのを見て、「これは落ちる」とそれだけはすんなり理解できた。


ワイバーンが事切れた合図だろうか。

老人を掴んでいた爪が力を失って、老人はなすすべなく宙に放り出された。

死の間際はゆっくりと時間が流れるというが、まさに。

老人の目は、もはや亡骸と化したワイバーンの巨躯と、それと同等の大きさを持つ翼のある黒い魔獣の姿がしっかりと捉えた。

死の恐怖はもはや感じない。

「これはなんと凄いものを見た」という、自分でも驚くほどののんびりとした感想だけを心の内に残し、落ちていく。


その時、老人の視界の端に黒い影が舞う。

翼の生えた小さな影が一つ、老人めがけて突進した。

シルエットだけは人の形をしたそれは、細い両腕で老人の胸部を抱き止めると、そのま激しく羽ばたいて落下の速度を殺す。

ワイバーンの死骸がすぐ背後を通り過ぎ、ごしゃっという地鳴りと共に森へ墜落したのが、眼下に見えた。


それを冷静に見守ったあと、老人は夢でも見るような心持ちで、自分の胸部に押し当てられている黒い小さな頭に視線をやった。

小麦のような若葉のような、不思議な色の瞳と目が合う。


「君は……」


潰れかけた喉で、老夫はようやくそれだけ声に出したが、獣の耳を頭から生やし背中に翼を持つ少年は、視線が合うとニンマリと笑っただけで何も言わない。

ただ、やけに嬉しそうな表情で老人を見上げていたのだった。

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