特命 名無しの権兵衛を探せ!(4)
――ダメですよ先輩。せっかく合流できたのに、挨拶すらしないうちにやられちゃうなんて。
高校生にしては幼い、愛嬌のある笑顔が目に浮かぶ。今日知り合ったばかりなのに、どうして彼のことを思い出したのだろうか。不思議に思いながら瞼を閉じると、全身を覆っていた水の感触が急に消えてなくなった。唐突に浮力から解放され、受け身を取る暇もなく床に落とされたので、背中を強かに打ち付ける。その痛みに暫く咳き込んでしまったが、おかげで飲み込んだ水もすっかり外に吐き出せたようだ。
「いやー、地味に危ないところでしたね。間に合って良かったです」
床に転がったまま、空気を求めて荒い呼吸を繰り返していた陽千香の頭上から、どこか軽い調子の声が降ってきた。顔を上げた陽千香は、視界に飛び込んできた光景に目を見開き、途切れ途切れになりながらようやく口を開いた。
「あ……あなた……圭介、くん……?」
「や、どうもこんばんはです」
片手を上げてそう挨拶してきたのは、紛れもなく薬袋圭介その人だった。現実世界の学校で会った時と寸分違わぬ笑顔を浮かべながら、陽千香の方に手を差し伸べてくる。陽千香は彼の手を借りて何とか立ち上がると、まだ落ち着かない息を整えながら訊ねた。
「ど、どうして、ここに……?」
「どうしてって、もちろん僕が神子だからに決まってるじゃないですか」
あっけらかんと答えてみせる圭介は、しかし冗談を言っているようには見えない。いきなりのことで困惑している陽千香から顔を逸らすと、圭介は廊下の先に目線を向けた。つられて見ると、少し離れたところに人魚の姿が波打っている。無闇に突っ込んでこないのは、新手である圭介を警戒してのことか。
「さて、積もる話もありますし、まずはこいつをやっつけちゃいましょうかね」
気軽に言ってのけると、圭介は右手を宙にかざした。何かを掴むように指を折ると、そこに青い光が煌めいた。
アクアマリン。海の水の名を冠した石を連想させる、透き通った柄を握りこむと、圭介は得物を軽く振ってみせた。細長い柄の先端に、柄と同じ材質でできた塊が付いている。形状的にはハンマーと呼ぶべきなのだろうか。圭介は肩で担ぐようにしてそれを構えると、陽千香の脇をすり抜けて悪魔の方へ近付いて行く。
その背に向かって陽千香は言った。
「圭介くんっ、そいつ物理攻撃は効かないのよ!?」
圭介は答える。
「そうでしょうね。水ですから」
それが何か? とでも続きそうな返答に唖然となり、陽千香は暫く硬直してしまう。その間にも圭介は歩を進め、悪魔の間合いへ入り込んでしまう。
だが、陽千香の焦りをよそに、悪魔が仕掛けてくることはなかった。むしろ、圭介が近付いた分だけじりじりと下がっているようにすら見える。圧倒的に有利な立場にあるはずのこの悪魔にして、その反応は意外だった。
陽千香が様子を見守っていると、こちらに背を向けたまま圭介が小さく笑った。
「ビビってますねー。本能的に分かるんでしょうね。僕の力が――」
圭介は一度言葉を切り、ハンマーを大きく振りかぶりながら言った。
「自分にとっての〝脅威〟だって」
陽千香の全身を、刺すような冷気が襲った。天井に掲げられたハンマーの先が強い光を放ったかと思うと、柄頭が見る間に氷に覆われていく。巨大な氷塊と化したハンマーを圭介が振り下ろした瞬間、校舎全体が揺れていると錯覚するほどの振動が拡がり、続いて周囲一帯に白い靄が発生した。
視界のほとんどが白く染まり、陽千香はほんの少し先に立っていたはずの圭介と悪魔を見失ってしまった。目眩ましか。だが、こう視界が悪くてはこちらもまともに身動きがとれない。警戒しながらじりじりと移動していくと、ようやく近くに人影を見つけた。陽千香は人影に近付きながら、潜めた声で呼びかけた。
「圭介くん、そこにいるの?」
「ああ先輩、そっちにいましたか」
陽千香の呼びかけに、圭介の声が応じた。全く緊張した様子のない声色に不安を覚え、陽千香は周囲を見回しながら問いかけた。
「ね、ねぇ、目眩ましは有効だと思うんだけど、肝心の悪魔の姿を見失っちゃったんじゃない? 不意打ちされたらどうするの?」
「それなら心配いりませんよ」
靄が晴れてきて、圭介の後ろ姿がはっきり見えるようになる。肩越しにこちらを向いた彼は相変わらずにこにこと笑ったまま、自分の前方を指差してみせた。
「もう終わりましたから」
その言葉に驚いて振り向く。
目に飛び込んできた光景から状況を理解するまで、たっぷり十秒は費やしただろうか。陽千香はゆっくりと〝それ〟に近付くと、指先で軽く触れてみた。
「凍ってる、の……?」
透き通った女性の半身が、こちらに背を向けた状態で静止していた。その手は助けを求めるように廊下の先に向かって伸ばされ、無機質な表情には僅かながら怯えの色が見て取れる。絹糸のごとく細い形状を保ったまま固まっていた悪魔の髪は、陽千香の体温で溶けてあっさりと折れてしまった。
「液体を斬ったり殴ったりはできませんけど、氷になっちゃえば話は別ですからね~」
片手でハンマーを回しながら、圭介が悠々とした足取りでやって来た。手振りで陽千香に下がるよう伝えると、頭上高くにハンマーを振り上げる。
「これが最後の仕上げです、よっと!」
言いながら、圭介が勢いよくハンマーを振り下ろした。直撃を受けた氷漬けの悪魔は、ガラスが砕けるかのように粉々になり、廊下の至る所に散らばっていく。月明かりを受けて輝く破片は、やがて雨が大地に染みるようにして、静かに廊下に吸い込まれていった。
一連の出来事を見届けると、陽千香は改めて圭介に向き直った。
「圭介くん、今のってもしかして……?」
悪魔を凍らせて無力化する。こんな芸当ができるということは、彼はもう"目覚めている"に違いない。
圭介が、呆然としている陽千香の方を振り返った。そして、陽千香の問いかけに対する回答の代わりとでもいうように、その言葉を口にした。
「改めまして、ご挨拶しますね。薬袋圭介、〝氷〟の神子です」
「〝氷〟の、神子……」
やはりそうなのか。言葉を失って佇んでいる陽千香に向かって、圭介はさらに続けた。
「ついでだから、御使いのことも紹介しておきますね。ミレイ……ミレイ?」
眉間を寄せた圭介が数回呼びかけると、彼の頭頂部辺りが急にもぞもぞと動き出した。目を凝らすと、彼の髪の隙間に、ぼんやりと光る小さな人影が確認できた。リヒトと同じ金糸の髪を肩の辺りで切り揃え、白い衣装に身を包んだ天使。眠たげに両目を細めた彼女は、たっぷり時間をかけて首を傾げると、間延びした声でこう言った。
『……ねむい』
眠たげなのではなく、本当に眠っていたらしい。呆気にとられて眺めていると、圭介が腰に手を当てながら顔をしかめた。
「あ、また居眠りしてたな。仕事中なんだからちゃんと起きててよ。僕に何かあった時どうする気?」
『……圭介が大丈夫か大丈夫じゃないかは寝てても分かる。大丈夫な間は寝てても大丈夫』
「意味が分からないから却下」
圭介のツッコミは、しかし彼女には何の効果もないようだった。目を閉じたまま、身動ぎ一つしていない。また眠ってしまったのではと思ったが、「聞いてるミレイ!?」圭介の声に『うー』と返事らしきものが聞こえた。
「これだもんなー……えーと、すみません。これ、僕の御使いのミレイです」
呆れた調子で圭介が紹介すると、『むー』という声が続いてきた。どうやら挨拶のつもりらしい。陽千香が苦笑混じりに挨拶を返すと、ミレイは淡い金色の目を開いてじっと陽千香を見つめてきた。何かと思って見つめ返すと、彼女は数回瞬きの後に呟くように言った。
『……陽千香もお昼寝中……?』
「え?」
首を傾げていると、彼女は圭介の髪の中に沈みながらこう言った。
『まだ、目覚めてない……』
ぎくりとした。たった二言、それだけで核心をついたその御使いは、あふ、と大きな欠伸を残して圭介の頭に潜ってしまい、圭介と陽千香のどちらが呼んでも反応しなくなってしまった。
「……何ていうか、すみません。こういうやつなんです」
「き、気にしないで。悪気はないんだろうし」
面目なさそうな圭介に両手を振ると、陽千香は気を取り直して自己紹介の言葉を述べた。
「こちらこそ改めまして、綾藤陽千香と、御使いのリヒトよ。能力は……」
そこで一瞬言い澱み、正直に話そうとした途端、不意に鼻がむずむずしてきてくしゃみが飛び出した。心なしか背筋もぞくぞくする。何だか風邪でも引いたような具合だ。
陽千香の様子を見た圭介が、小さく苦笑しながら言った。
「さっき僕が冷気ぶちまけちゃったから、身体が冷えちゃいましたかね。続きは後日にしましょうか?」
くしゅん。続くくしゃみに、思いのほか自分が冷えていることを認識する。夢の中だというのに、こういうところはリアルなのだから厄介だ。少しばかり残念だったが、陽千香は圭介の提案に従うことにした。
「じゃあ……明日、薬袋くんの教室に行くわ。お昼休みで大丈夫?」
「分かりました、お待ちしてます。それじゃあ、今日はお先に」
陽千香に応えると、圭介は軽くこちらに一礼してから、自分の頭のてっぺんを突いた。途端、耳慣れた風船の音が響き、圭介の姿が掻き消える。こちら側に取り残されたミレイが、快適なベッドを失って不満そうな呻き声を漏らしていた。