Dear My Brother(5)
マンションの塀に掲げられた番地と、スマートフォンの画像を見比べた陽千香は、どうやら目的の場所に辿り着けたらしいことにほっと息をついた。ホールに入ってエレベータのボタンを押し、箱が一階に到着するのを待つ。
比較的古い物件なのだろう。住人の部屋の前まで自由に入れる構造で助かった。セキュリティの厳重な最近のマンションだったら、建物の入口で足止めを食らっていたかもしれない。ベルの音と同時にエレベータの扉が開き、陽千香は三階のボタンを押した。
箱から下りて、蒼真の住む三〇六号室を探す。
――ええと、こっちが三〇一だから……。
一、二、三……順に辿って目当ての部屋まで歩いて行く。"志筑"の表札が視界に入り、陽千香は思わず廊下を駆けた。
もう陽もだいぶ傾いて、いくつかの部屋の窓からは照明の明かりが漏れてきていた。陽千香が向き合うその部屋は、未だ薄暗闇に包まれている。恐る恐るチャイムを鳴らし、部屋の中の気配に意識を研ぎ澄ませる。
暫く待っても、誰かが出てくる様子はなかった。もう一度チャイムを鳴らし、祈るようにその場に佇む。何の反応も返さない扉にため息をぶつけると、陽千香はスマートフォンを取り出した。登録してある蒼真の番号にかけながら、三度目のチャイムに手を伸ばす。やがて聞こえてきた留守番電話の音声にもめげず、今度は直接玄関の扉をノックする。
「志筑くん……私、綾藤です。みんな心配してるの。お願い、いるなら顔を見せて……!」
扉越しに部屋の中へ呼びかけるも、やはり蒼真が現れる気配はなかった。みんなの想いを預かってやっとここまで来たのに、会わずに諦めるなんてできない。食い下がるようにもう一度ノックを残すと、陽千香は扉から身を離した。せめて家族でも帰ってくれば、蒼真に会うチャンスができるかもしれない。何時間でも待つ覚悟で、陽千香は扉の正面に佇んだ。
――カチャリ。
小さな音が聞こえたのは気のせいではなかった。顔を跳ね上げると、これまで何の変化も見られなかった扉が、緩やかに開くのが目に入った。控えめに開かれた隙間をこじ開けるようにして覗き込み、そこから見えた姿に思わず声を上げる。
「志筑くん……!?」
玄関に立った蒼真は、上目遣いに陽千香を見るなりその場にうずくまってしまった。陽千香は扉を開けて中に入り、荷物をその辺りに放り出すと、蒼真に寄り添うように膝をつく。
蒼真は酷い顔をしていた。何日もまともに休んでいないような憔悴しきった様相で、壁に寄り掛かっていなければ今にも倒れ込んでしまいそうだった。横から抱え込むようにして何とか蒼真を立たせ、部屋の奥へと連れて行く。リビングを通り過ぎた先に開いている扉を見つけ、彼の部屋だと当たりを付けて運び込む。目に入った二段ベッドの方へ近付いていくと、蒼真は崩れるようにしてその手前に座り込んだ。これ以上は動かせそうもない。陽千香は上がった息を整えながら、蒼真の隣に腰を下ろした。
蒼真は、頭を抱え込んで何かに怯えるように縮こまっていた。宥めるように背中を擦ってやりながら、陽千香はそっと口を開いた。
「食事は? ちゃんと休んでるの……?」
蒼真は答えない。陽千香は構わず訊ねた。
「お家の方はお仕事? 帰りは遅いの?」
ようやく、微かな反応があった。小さく頭を振った蒼真に耳を寄せると、弱々しい掠れ声が答えた。
「……仕事で、あちこち飛び回ってて……ここにはほとんど帰って来ない……」
「……志筑くん、一人なの……?」
想定外の答えに言葉を失う。黙り込んだ陽千香に、蒼真が弁解するように言った。
「……蒼司の入院費とか、バカにならなくて……両親、稼ぐのに必死だから……」
だとすれば、身の回りのことも当然自分一人でやらなければならないのだろう。この状態でまともに家事ができるとは思えない。食事も睡眠もろくにとっていないのなら、疲弊するのは当たり前だ。何とかして休ませたいところだが、今のままではそれもままならないだろう。
陽千香は心を決めて、ここに来た本来の目的を口に出した。
「蒼司くんのこと、みんなにも話したわ。志筑くんの許可も取らずに悪いと思ったけど、このまま黙っていても何も変わらないと思って」
蒼真は顔を伏せたまま聞いている。陽千香は続けた。
「今日ここに来たのは、これからのことについて話したかったからなの。蒼司くんはあれから一度も姿を見せてない。多分、志筑くんを待ってるんだと思う。蒼司くんともう一度話すには、志筑くんの協力がいるわ。でも今の志筑くんじゃ、まともに蒼司くんと向き合えない……教えて、何をそんなに恐れてるの? どうしたら志筑くんの力になれるの?」




