ガラス細工の針(16)
校内放送が示した体育館へと向かう。階段を駆け下りて渡り廊下へと急いだ陽千香達は、既に開け放たれた金属扉をくぐって体育館に踏み込んだ。中は暗幕で窓が塞がれ、舞台付近を除いて照明が全て落とされた状態だった。舞台には赤い幕が下ろされており、まるでこれから何か始まると言わんばかりのセッティングだ。呼吸を乱しながら体育館の中央に佇んでいた蒼真に駆け寄ると、場内にけたたましいブザーの音が鳴り響いた。警戒しながら周囲を見回す陽千香達の背後で、金属扉が独りでに閉まっていく。照明の明かりが徐々に弱まり、いったん全てが暗闇に呑まれたところで、ブザーの音は鳴り止んだ。
『……あるところに、一人の男の子がいました』
聞き覚えのない声が、聞き覚えのある物語を語り出す。再び照明に照らし出された舞台の幕が開き、
奥に秘められていた情景が観客席にさらされた。
河原の土手の風景。その上を、一人の少年が歩いている。年の頃は十歳前後か。まだ子供らしさを残した幼い顔立ちに、ほんの少し大人びた雰囲気を纏わせたその少年は、どこかで見たような面差しをしていた。
『男の子には、仲の良い双子の弟がいました』
「待ってよ兄貴!」
怒ったように言いながら、よく似た姿の少年が駆けて来る。並んで立てば容易に見分けが付かないであろう彼は、しかし最初の少年よりも少しあどけない雰囲気を醸していた。兄と弟。纏う空気の僅かな違いを除いてそっくりな二人が、土手の上で対峙する。
「何だよ、怖い顔して」
「何だよじゃないよ! どういうことだよアレ!?」
「仕方ないだろ。学校の授業、付いていけなくなってきてるんだよ。サッカーなんかより勉強しなきゃ」
「嘘つきっ!」
それは、先ほど端末室で見た動画の再現だった。舞台上の少年達は、動画の筋書きと全く同じ調子で口論を始めた。怒って踵を返した兄に弟が突っかかり、そこから次第に喧嘩がエスカレートしていく。
「……ダメだ……」
陽千香の耳に、震える小さな囁きが届いた。
「それ以上はダメだ……!」
「志筑くん……!?」
隣に立つ蒼真の横顔を見上げる。彼は顔面蒼白になりながら、目の前で繰り広げられている兄弟喧嘩に見入っていた。自分の――自分と蒼司の記憶にすっかり囚われて、恐慌状態に陥っている。
「志筑くん、落ち着いて……これは全部夢なんだから、ね?」
蒼真の平静を取り戻すべく呼びかけるが、その声は蒼真に届いていないようだった。恐怖一色に塗り潰された目が、弟に転ばされる過去の自分を凝視する。
「もう止めてくれ……!!」
血を吐くように言った蒼真が、舞台の方へ走り出した。彼を引き留めようと伸ばした手が虚しく空中を掻き、陽千香は焦りながら蒼真を呼ぶ。
「志筑くんっ!!」
あっという間に舞台の下まで辿り着いた蒼真は、走る勢いのまま舞台上によじ登ると、兄弟達目掛けて駆け寄っていく。兄弟達は、まだ芝居を続けていた。場面は物語の終盤、手足を怪我した兄に向かって、弟が飛び掛かって行くところに差し掛かっていた。
「蒼司っ!!」
悲痛な叫びとともに、蒼真が弟に向かって手を伸ばす。組み合って暴れていた兄弟達の目が、驚いたように蒼真の方を向く。その瞬間が訪れるより僅かに早く到達した蒼真の手が、弟を繋ぎ止めるべくその手首へと伸びていき、そして。
次の瞬間、その手が弟の肩を突き飛ばしていた。
「――え?」
何が起きたのか分からない、という表情だった。弟を助けようとした手。弟の手首を掴んだはずの手。その手に身体を押された少年が、呆然と蒼真を見つめながら落ちていく。
弟を突き飛ばすはずだった"過去の"蒼真。その姿は、いつの間にか舞台上から消えていた。彼がいたはずの場所には、"今の"蒼真が一人ぽつんと佇んでいる。蒼真は当惑した表情で自分の両手を眺め、やがてそろそろと動き出すと、舞台の端から下の景色を見下ろす。
陽千香は急ぎ舞台上へ駆け上がると、後ろから抱きかかえるようにして蒼真を下がらせた。見開かれた彼の目は、未だ舞台の下に釘付けになっている。蒼真の正面に回ってさらに彼を押し下げながら、陽千香は肩越しに蒼真の見ている光景を見やった。
地面に倒れて、目を閉じている少年の姿。頭の周辺には、赤い色彩が広がっている。唯一動画と違うのは、それが水彩絵の具などではないということ。照明を受けてぬらりと光る粘性のある液体と、胸の悪くなるような鉄の臭い。
「あ……あ……?」
「志筑くんお願い落ち着いて。これは夢なの。本物じゃないの」
掠れた息の音を漏らす蒼真に、陽千香は必死で訴えた。
「本物の蒼司くんは今この瞬間も病院で眠ってる。これはただの夢なの……悪夢なの!」
「そう、悪夢だよ。兄貴のトラウマを掘り返してあげたんだから、ね」
すぐ近くから、誰かの声が陽千香に応えた。慌てて振り向き、蒼真を庇うように身構える。
「久し振りに会うからさ、めいっぱい歓迎してあげようと思って練習したんだ。お芝居、気に入ってもらえた?」




