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リンクリングトラウム  作者: 田川 竜
第五章 ガラス細工の針
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ガラス細工の針(11)

学校から歩いて十数分。やがてたどり着いた場所は、市内のとある病院だった。

時間外のため、正面エントランスは既に扉が閉ざされてしまっていた。建物の脇にある通用口から中に入ると、小さな窓口に警備員の姿が見えた。勝手が分からず立ち(すく)んでいると、先に進んだ蒼真が慣れた様子で面会札をもらって来る。差し出されたそれを陽千香が受け取ると、蒼真は廊下を進んだ先にあるエレベーターのボタンを押した。ゆっくりと上昇する箱の中で、陽千香はそっと蒼真の様子を窺い見る。

操作パネルの脇に背を預け、じっと俯いている彼の表情は見えない。一緒に学校を出てから向こう、蒼真は一言も発していなかった。ただ哀しげに目線を伏せ、思い詰めた様子で陽千香の前を行くその姿は、不良達を追い払った時とは打って変わり、とても小さく見えていた。

目的の階に到着し、エレベーターの扉が開く。蒼真はリノリウムの白い廊下を迷いなく進み、突き当たりの病室の前で足を止めた。ほんの一瞬、躊躇(ためら)うような間を置いた後、白い引き戸に手をかける。滑らかに開いた戸をくぐった蒼真に続こうとした時、ふと病室のネームプレートに目が止まった。そこに書かれていた名前は、志筑――

「……蒼司(そうじ)……」

一文字違いのその名前に胸がざわめく。支えを失った戸が、独りでにするすると閉じていく。陽千香は閉まりかけた戸に手を伸ばして留めると、意を決してその先に足を踏み入れた。

蛍光灯の白い光が、室内を無機質に照らしている。暗い夜空が広がる窓に、薄い水色のカーテンを引きながら、蒼真は目線で部屋の中心を示していた。清潔なシーツに覆われたベッド。恐る恐る近付いて行った陽千香は、そこに横たわっている人物の顔を覗き込み、思わずはっと息を呑んだ。

目元にかかる少し長めの黒髪。太陽を忘れて久しいような白い肌。やつれて細く()けた頬。目の前に立っている少年に瓜二つの、その面差し。

「……弟。双子の」

ぽつりと。独り言のように呟いた蒼真に目を向ける。彼は暫くベッドの上に視線を注いでいたが、やがてふと思い出したように部屋の隅まで歩いて行き、折りたたみの椅子を一脚手に取った。ベッドの脇で広げたそれを、黙って陽千香の方に押し出してくる。陽千香は蒼真の顔と椅子を交互に見比べると、勧められるまま腰を下ろした。陽千香が座るのを見届けた蒼真は、自分はベッドの横に立ったまま、小さな吐息とともに口を開いた。

「もう長いこと意識が戻らないんだ……今年の夏で五年になる」

五年。気の遠くなるようなその月日の長さに、陽千香は言葉を失ってベッドの上の少年を見た。弱々しいが穏やかなその寝顔は、揺り起こせば今にも目を覚ましそうに見える。

「弟さん、事故か何かで……?」

慎重に言葉を選びながら訊ねた陽千香に、蒼真は静かに首を振った。少年の方に手を伸ばし、(いつく)しむように頭を撫でるその表情には、後悔と罪悪感が(にじ)んでいる。黙って様子を見守る陽千香に、彼は虚ろな目を向けながら答えた。

「俺がやった……階段から突き落とした」

「……な……」

あまりのことに絶句した陽千香は、口元を押さえて蒼真を見上げた。

「……何が、あったの?」

辛うじて声を絞り、その質問を投げかける。蒼真は少年を撫でていた手を引いて、ベッド脇にある柵を握り、淡々と陽千香の問いかけに答えた。

「ケンカしたんだ……小六の、もうすぐ夏休みって時期に。その頃、二人してサッカークラブに入っててさ。夏の試合が最後だからって、一緒に出る約束してたんだ。でも色々あって、俺だけクラブ辞めることになって。それでこいつが怒ったんだ。あんまり突っかかってくるから、こっちも頭にきてさ。取っ組み合って殴り合ってるうちに、気が付いたら……こいつが血まみれで倒れてた」

柵を握る蒼真の手が白い。彼は自覚しているのだろうか。抑揚(よくよう)のない声で静かに語るその表情が、悲しそうに歪んでいることを。

「こいつのこと、突き飛ばしたとこまでははっきり覚えてる。よろけたこいつが、階段に足を取られて仰向けに倒れていくその間、呆然とした顔で俺の方を見てるんだ。こいつと最後に目が合って……その後、階段の下で血まみれになるまでの記憶がどうしても思い出せない。……変な話だろ、目の前で全部見てたはずなのに」

問うような蒼真の言葉に、陽千香は何と返して良いか分からなかった。蒼真は小さく息をつくと、元の無表情に戻って陽千香の方へ向き直った。

「悪魔に取り憑かれた宿主が最終的にどうなるか、御使いから聞いてるか?」

「夢から覚められなくなって、そのまま……って聞いてるけど……」

陽千香の答えに、蒼真は頷いた。

「フラットからその話を聞いた時、こいつの姿がダブったんだ。宿主は俺とは何の関わりもない奴かもしれない。でも、その家族はいつか、俺と同じような思いをするかもしれない。そう考えたら、神子の役目を断るなんて選択肢、思い浮かばなかった」

「志筑くん……」

陽千香は椅子に座ったまま、蒼真の目を見つめた。以前まで見せていた、刃物のような鋭さは今はない。代わりに覗いたのは悲壮な覚悟。顔も名前も知らない誰かに、自分と同じ痛みを味わわせまいという強い意志。

「助けてやりたいんだ、あの夢の持ち主を。そのために必要だっていうなら、お前や、お前の仲間とも協力する。……だけど……」

蒼真は一度言葉を切ると、また微かに寂しげな声色で続けた。

「仲間とか、友達とか、駄目なんだ……こいつから全部奪っておいて、自分ばっかりそういうのに囲まれてるの、不公平だから」

陽千香は痛む胸を抑えながら視線を俯けた。蒼真は、だからいつも独りでいたのだ。弟に対する罪悪感を背負って、それを誰にも打ち明けることができずに。屋上で日がな一日空を見て過ごしていたのは、寂しさを紛らわせるためだったのだろう。教室の喧騒(けんそう)の中にいれば、嫌でも孤独が浮き彫りになってしまうだろうから。

「……どうして、私に話してくれたの?」

陽千香の問いに、蒼真は小さく頭を振って答えた。

「自分でもよく分からない。お前が心底お人好しだと思ったからじゃないか」

――本当にそうだろうか?

いくらお人好しに見えたからと言って、普通知り合ってまだ間もないような相手に、こんな大事な話をしないものだ。本当は蒼真の方こそ、誰かに助けを求めたかったのではないのだろうか。

不良として周囲の人間を遠ざけてきた彼の周りには、手を差し伸べてくれる相手もいなかったはずだ。もうすっかり諦めて、心を閉ざすことで乗り越えようとしていた。そんな時に、陽千香と出会ったのだとしたら。

今、蒼真は必死に手を伸ばしているのだ。たとえ本人に自覚がなくても、彼の心が限界なのは想像に(かた)くない。伸ばされた手を、握り返してあげなくてはならない。それは彼から信頼を寄せられた、陽千香にしかできないことだから。

陽千香は椅子から立ち上がると、ベッドの脇に立って少年の顔を見下ろした。閉じた目元にかかった髪を、指先でそっと払ってやると、蒼真によく似た幼い顔が覗いた。

「弟さん、蒼司くんていうのね。ホントに志筑くんそっくり。双子だなんて知らなかったなぁ……」

そう言って面を上げると、隣に立つ蒼真と目が合った。少し気まずそうに視線を逸らす彼に微笑みかけると、陽千香は思うままの言葉を声に乗せる。

「やっぱり私、志筑くんと友達になりたい」

蒼真が驚いたように目を見開いた。困惑したように瞳を揺らす彼に、陽千香は構わず続けた。

「前にも言ったでしょう? 戦力が欲しくて志筑くんに近付いたわけじゃない。仲間でも友達でもないのに、力だけ貸してもらうなんておかしいもの。志筑くんが協力してくれるなら、私も志筑くんの力になりたい。大して役には立てないかもしれないけど、それでも良ければ手伝わせて。私、志筑くんのこと精一杯支えるから」

「……何、言ってんの? お前……」

陽千香の申し出が想定外だったのだろう。蒼真は困惑しきった表情で陽千香のことを見ている。陽千香は正面から蒼真の顔を見つめ返して言った。

「志筑くん、自分のことを何だと思ってるの? ただの高校生でしょう? まだ社会に出てもいない、自分の面倒だって自分一人で見られないのに、どうやって弟さんや宿主のことまで背負えると思うの? 弟さんのことは、役に立てること少ないかもしれない。でも、宿主のことなら力になれる。みんなだって協力してくれる! ……どうしても友達がダメだって言うなら、志筑くんは私を利用してるって思ってくれても構わない。だからお願い、手伝わせて。ね?」

言葉の最後に微笑みかけると、強張(こわば)っていた蒼真の全身から力が抜けた。悲しげな目の下で引き結ばれていた口元が開き、囁くような小声が漏れる。

「……これ以上、迷惑かけたくないんだ……」

それが、蒼真の本質なのだろう。自分のことより、他人のことを気遣うような優しい心根の持ち主。校内で恐れられる不良少年の正体がこれだなんて、いったい誰に想像できるというのだろう?

陽千香は笑った。

「見くびらないで。迷惑だなんて思ったこともないわ。私がそうしたいから手伝うだけ。友達なんだから、当然でしょう?」

本当は、伝えたい言葉は他にもある。だが、今の蒼真にそれを伝えても、彼を困らせてしまうだけだろう。だからこれで良い。彼の助けになれるのなら、今はそれだけで。

蒼真は、暫く黙って陽千香の目を見つめていた。逸らさず受け止める陽千香の前で、やがて風船が(しぼ)むようにふっと息を吐く。歳より少し幼いような表情を浮かべた彼は、長い長い時間を置いて、ようやくそうと分かる程度に、こくんと小さく頷いてみせた。

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