ガラス細工の針(10)
「……どうして、こんな時間まで残ってたの?」
散々泣いて気持ちが落ち着いた頃、陽千香はハンカチで顔半分を覆いながら、隣に座る蒼真に訊ねた。
一日でこんなに泣いたのは初めてかもしれない。顔はパンパン、声は鼻声でとても人前に出られる状態ではないが、こうなってしまったらもうごまかしようもない。髪とハンカチで視線を遮り、この醜態をなるべく蒼真に見られないよう顔を背ける。
蒼真は、暫く躊躇うように沈黙していた。陽千香に気を遣ってなのか、はたまた別の理由からなのか、彼の方もあまりこちらに視線を投げてはこなかった。不細工を見られずに済むのは助かるが、何か思い詰めている様子が気にかかる。こんな顔でなかったら、もっと堂々と彼の目を見て話ができるのだが。
「……悪かった」
「え?」
ようやくぽつりと零したその言葉の意味が分からずに訊き返すと、彼は気まずそうに俯きながら続けた。
「……酷いこと言った。言い過ぎたの、謝らなきゃと思って」
「……ぁ……」
思わず息が漏れた。悪いのは陽千香の方なのに、まさか気にしてくれていたなんて。
「教室にいるかと思って、近くをうろついてたら、お前の友達だって奴らに声かけられた。お前の体調不良のこと何か知ってるかって訊かれて、その時に保健室に行ってるって知った」
間違いなく、有紀達だろう。午前中まで何事もない顔で過ごしていただけに、急な体調不良を不審に思ったのかもしれない。
「その後、保健室の前まで行ってみたけど……いざとなったら、どんな顔して会えば良いのか分からなくて、結局中には入れなかった。さっき出直した時には、お前もういなかったし……」
「……来てくれたの?」
顔を隠すのも忘れて蒼真の方を見る。俯いている蒼真の横顔は、何かとても辛そうに映った。陽千香は訊ねる。
「じゃあ、屋上まで来てくれたのは……?」
「保健室からの帰りに、その辺歩いてた奴が話してるのが聞こえた。停学中の高橋達が、二年の女子を連れてったって。咄嗟に思い浮かんだの、お前くらいだったから……」
収まった涙がまた溢れそうになって、陽千香は慌てて空を仰いだ。息を止めて瞬きを繰り返し、気持ちが静まるのをじっと待つ。
人の噂に聞いただけなら、陽千香達が最終的にどこへ向かったのかまでは分からなかったはずだ。それでも探して来てくれた。あの時息を切らしていた理由を思い、胸がいっぱいになる。
「どうしてそこまでしてくれたの……?」
陽千香は蒼真を傷付けた。そんな自分を、どうして彼は気遣ってくれるのだろう。
陽千香の問いかけに、蒼真がぎゅっと自分の服の袖を握り締めた。殻に閉じこもるように身を縮め、視線を小さく揺らしている。訊かない方が良かっただろうか。だが、これまでずっと口を閉ざしていた蒼真が、必死に何か伝えようとしている気配を感じ、陽千香は黙って待ち続けることにした。
「……何で、助けたんだ?」
絞り出すような声で紡がれたのは、そんな問いだった。
何を言っているのだろう。陽千香はきょとんとしながら蒼真の横顔を見つめた。助けてくれたのは蒼真の方ではないか。
もしかして、先日の夜の話だろうか。悪魔の攻撃に倒れた蒼真を治療したこと。そんなのわざわざ言うまでもないことだ。陽千香を庇ってくれた。そのために負わせてしまった傷を、陽千香が治すのは当然のことなのに。
――違う。そうじゃない。
これは続きだ。あの晩、悪魔に襲われる直前に蒼真が言いかけていた台詞の続きなのだ。だとすれば、問われているのは傷を治した理由ではない。現実世界で蒼真の疑いを晴らした、あの時のことを訊かれているのだ。
あの一件をきっかけに、蒼真は陽千香と合流してくれた。陽千香のことを信じようとしてくれた。だがその直後に、陽千香は蒼真を裏切ってしまった。だから蒼真は怒ったのだ。裏切った陽千香に。陽千香を信じた自分自身に。
蒼真は、陽千香から返ってくる答えに怯えているように見えた。今、もう一度同じ問いをぶつけてくれたことの重みを理解した陽千香は、今度こそ間違えないように言葉を選び、そして答えた。
「何となく」
蒼真は怪訝そうに眉を寄せると、顔を上げてこちらを見た。泣き腫れた顔を見られるのは恥ずかしかったが、きちんと目を見て話すべきだろう。陽千香は真っ直ぐ蒼真の方を向いて、彼に微笑みかけた。
「全然大した理由じゃなくてごめんね。でもホントなの。あの時……職員室で、何もかも諦めたような志筑くんの顔見てたら、このまま放ってなんておけないって、そう思ったの」
「……それだけ?」
「そう、それだけ」
陽千香の答えに、蒼真は呆気にとられたような顔をしていた。
色々と理由を付けて飾ることもできただろう。だが、蒼真への回答として最も相応しいのは、ありのままの素朴な動機だと思ったのだ。簡単には人を信じないような彼にだからこそ、そんなことで他人の面倒に首を突っ込む人間がいることを伝えたかった。
陽千香は背中のフェンスにもたれかかると、一つ大きく深呼吸をした。蒼真ともう一度、こんな風に話せるようになるなんて思ってもみなかった。蒼真さえ許してくれるなら、もう一度最初からやり直したいと思う。だが、自分からそれを言い出すのはお門違いだろう。決める権利は蒼真にある。
「すっかり付き合わせちゃってごめんね。気分も落ち着いたし、私そろそろ帰るわ」
立ち上がりながら言うと、陽千香に合わせるように蒼真も腰を上げた。既に陽は落ちて、空は暗くなっている。今からだと、ご飯を炊くのも間に合わなそうだ。今日の夕飯は、お弁当でも買って帰ろう。スカートの裾を払い、足元の鞄を拾い上げて、もう一度蒼真に笑いかける。
「それじゃ、ね。もし向こうで会えたら、またこうやって話してもらえたら嬉しいな」
言って、陽千香は踵を返した。四角い影と化した塔屋に近付き、金属扉に手を伸ばす。
「――この後、時間あるか?」
ドアノブを回そうとした瞬間、背中にそんな声がかかった。驚いて振り向くと、蒼真は声をかけたことを後悔するような、それでいて陽千香が足を止めたことに安堵するような、曖昧な表情でそこに立っていた。
「……見せたいもんがあるんだ」
「……見せたいもの?」
オウム返しに呟くと、陽千香は手首の時計に目を落とした。六時も回って、これから出かけるとなると、帰りはだいぶ遅くなる。
陽千香のその仕種を拒否と受け取ったのだろう、蒼真は一瞬だけ寂しげに表情を歪めた後、何事もなかったような声で言った。
「無理にとは言わない」
「あ、違うの。ちょっと待って」
陽千香は慌てて手を振ると、ポケットからスマートフォンを取り出した。眉を寄せている蒼真の前で画面をタップすると、アドレス帳からとある番号に電話をかける。
「……あ、もしもし兄さん? 私。悪いんだけど、今日の帰りにお弁当買って来てもらえない? 有紀が熱っぽいって言うから、お家の人が帰って来るまで一緒にいてあげたくて。……うん、ご飯は家で食べるから、私の分も買って来て。……え? ううん、伝染されてなんかいないわよ。スピーカーの調子でも悪いんじゃない?」
話し終えて電話を切り、蒼真の方に向き直る。どこか呆けたような表情でこちらを見ている蒼真に、陽千香は笑った。
「これで大丈夫。見せたいものってなぁに?」




