ガラス細工の針(9)
「……ほー?」
ぎらり、と音がしそうな鋭い笑みを浮かべると、高橋は膝に手を突いて立ち上がった。口の端に煙草を咥えた状態でこちらに近付いて来ると、わざと陽千香の顔にぶつけるようにして煙を吐き出す。咳き込む陽千香の様子に満足そうに嗤うと、仲間二人の方を見やりながら言った。
「随分上等なモン拾って来たな?」
「散歩のついでにしちゃ悪くないだろ?」
「オレオレ、オレが見つけたんだって~!」
周りで騒ぐ彼らの声を、陽千香は縮こまりながら聞いていた。肩に掛けた鞄の持ち手を、縋るように強く握り締める。目ざとくそれに気付いた高橋が、咽喉の奥で嗤いながら言った。
「残念だったな。今日は志筑はいねぇぞ」
そんなことは分かっている。陽千香は奥歯を噛みしめながら、心の中で言い返した。蒼真がいるなら、彼らが大手を振ってこの場所にいられるわけがない。そして、たとえ蒼真がいたとしても、もう彼は陽千香を助けてはくれない。
せめてもの抵抗に高橋の顔を睨み付けると、彼は不愉快そうに表情を歪めて舌打ちした。
「相変わらずクソ生意気な女だな、気に入らねぇ」
「なぁ、コイツどーする?」
足元に転がっていたスナック菓子を拾い上げて袋を破きながら藤堂が訊ねた。
「オレ的には外連れ回して遊びたいんだけどなー。ガッコの中じゃちょっと、さ」
何がちょっと、だ。触れられたわけでもないのに、身体中に不快な感覚が駆け巡る。この三人と一緒に学校の外になんて出たら、それこそもう何をされてもおかしくない。身を硬くする陽千香を尻目に、高橋は口の端を吊り上げた。
「そうだな……俺なら――」
どんっ。
「こうするな」
腹部に何かが当たる感触。恐る恐る視線を下げると、高橋の右手が自分の腹へ伸びていた。指の第二関節から手の甲までの間、拳の一番平らな部分が、鳩尾の少し下辺りに添えられている。
力を込めなかったのはわざとだろう。単に衝撃だけを感じる程度に加減したのだ。本気で殴られればどうなるか、陽千香自身に想像させるために。分かっていても、震えずにはいられなかった。駐車場での一件に対する報復。そんなもっともらしい理由が、彼の側にはあるのだから。
「えー? んだよ色気ねぇな」
「うるせぇな、興味ねぇっつったろうが。そんなに遊びたきゃ、俺が殴って大人しくなった後に好きにすりゃいいだろが」
「……それもイイな」
自分を完全におもちゃ扱いし始めた不良達を前に、何もできないのが悔しかった。俯いて、白くなるまで拳を握り、折れそうになる膝を支えてじっと耐える。界境世界で悪魔に追い詰められた時と同じだ。弱くて何の取り柄もなくて、自分自身を守ることさえ満足にできない。
もう二度と、助けてなんてもらえないというのに。
この三人の前では決して泣くまいと、熱くなった目頭を押さえるように目を瞑る。暗闇に覆われた視界の向こうで、下品な笑い声が響いている。その笑い声の中に、一瞬変な声が混じった。尻尾を踏まれた猫のような、お化けに驚いた時の悲鳴のような――悲鳴?
目を開けた陽千香は、自分の肩に違和感を覚え、そして気付いた。杉下の拘束がなくなっている。教室で捕まってから一瞬たりとも陽千香を自由にしなかった手が、今は肩から外れている。
顔を上げて振り返った瞬間、ちょうど自分の背後をすれ違うようにして何かの気配が通り過ぎた。視界の隅に、床にうずくまっている杉下の姿。後方で、再び誰かの短い悲鳴。鼓動の音が、徐々に大きくなってくる。そんなはずはないと。期待してはいけないと。どんなに言い聞かせても、瞼の裏にその姿が焼き付いて離れない。
「テメェはホントにいつもいつも……とことん邪魔してくれるよなぁ……!」
高橋の耳障りなドラ声が、夕陽の赤い空に響く。
「ええ!? 志筑ぃっ!!」
弾かれるように振り向いた時、自分の脇を巨大な影が飛んでいくのが目に入った。それが何かはわざわざ確かめるまでもない。吹き飛ばされた高橋だった。
「い……ててて……っ」
足元で小さな呻き声が聞こえる。食らった一撃から立ち直った杉下が、片膝を立てて立ち上がろうとしていた。途中、彼は自分の近くに倒れ込んだ高橋の姿にひっと息を呑み、視線を上げた先に佇むその姿を見て、もう一度ひっと悲鳴を上げた。
夕陽に染まった赤い髪を炎のように揺らめかせ、肌が焦げ付くような威圧感を放っている少年。もう二度と起きないと思っていた、陽千香が心から頼りたかった、その奇跡。
刃物のような視線に射竦められ逃げ出そうとした杉下を、短い声が押し留める。半分泣き顔になりながら振り返った杉下に、少年は無言で顎をしゃくってみせた。それだけで杉下も察したのだろう。自分より大柄な、しかも失神してしまっている男子二人をどうやって運ぶか大いに悩んだようだが、少年の圧力に体裁を構っていられなくなったのか、片足ずつを掴んでずりずりと引き摺りながら扉の向こうへ運んで行く。
やがて杉下が勢いよく扉を閉めると、はぁっ、と短く息をつく音が聞こえた。構えを解いた少年は、身に纏っていた苛烈な空気を急速に四散させ、凪のように静かになっていく。こちらを避けるように視線を彷徨わせている彼の様子を見ながら考える。どうして息なんか切らしているのだろう。前にあの三人を叩きのめした時は、息切れどころか顔色一つ変えなかったのに。今は何だか、ほっとしているように見える。陽千香が不良達と一緒にここにいるなんてこと、彼が知っていたはずはない。だから絶対に、そんなことはあり得ない。
蒼真が、自分を助けに来てくれたなんてことは。
蒼真に背を向けて距離を取ると、陽千香は俯いて立ち尽くした。我慢し続けていた涙が独りでに溢れ出し、自分の意思ではどうにもならなくなっていた。嗚咽が漏れないように堪えれば堪えるほど、息を吸う音が目立って聞こえた。どうしようもなくてしゃがみ込み、顔を伏せて隠していると、すぐ傍らで小さな衣擦れの音がした。
何も話しかけてはこない。それでも傍にいてくれることが嬉しくて、陽千香は暫く声を殺して泣いたのだった。




